永遠のものなんていらない。どんな言葉に飾られていたとしても所詮まやかしだと知っているからだ。いつか必ず失われるとわかっているものに縋るなんて無意味だ。どんな感情でも、ほんの一時心を満たしてくれればそれでいい。凪いだ心で、ずっとそう考えていた。


 訳のわからない力を生まれつきに持ったバケモノ。まだ幼い時分、周囲の人間が所詮上辺だけの優しさを取り繕えなくなる度にいくつもの施設や里親の元を転々として、初めて守ってくれる庇護の手や友人を得ることが出来たのかもしれないと思った町だった。名は覚えていない。日はかげろい、爆風に巻き上げられた砂埃で霞がかったように全ての色が沈んでいた。一定の秩序を持って並んでいた建造物の連なりは無差別な破壊行為でその外観を一変し、辺りはまるで廃墟の様相を呈していた。打ち崩された石壁や砕かれて散らばった原型を留めない欠片。地に落ちて外気に晒された、崩れた断面ばかりが鮮やかな煉瓦の色。幼さによる無知からありもしないものを一心に信じていた結果。それまでは存在していた意思の箍が外れ、心のままに解放された鉄の威力で破壊をし尽くした後の景色は、すでに涙も乾いた瞳へ醜いこの世界の現実をさらけ出した姿として鮮明に記憶された。あれはまだロベルトが五歳の頃のことだ。
 本質的に、生きていくということは孤独だ。信じるに足るもの、心を許すことができる誰かなど存在し得ない。信じられると思うことは弱さによる欺瞞であり、群れるという行為は一人でいることへの不安を埋める為に、互いに己の心情に適当な理由を与えて表面上を取り繕っているに過ぎない。それらは深くロベルトの中に実感として刻み込まれた真理だった。
 過去を忘れたいと思ったことはない。かつて自らの置かれていた状況も今は不幸だとも思わない。むしろ現実を教えてくれたことには感謝しているのだ。あの人達と出会えたおかげで、ロベルトは何にも惑わずにいられる。
 あの日からずっと暗闇が胸の奥を掴んでいる。果てしない漆黒の中で、閉塞感に目の前を塞がれそうになりながら、これまでロベルトは一人で立ち尽くしていたに過ぎない。息をし続けることも大儀に感じ、在るべき世界が違うことだけを知りながら、ただ遠いものとして空を見ていた。
 今日は終わりだろうか。また、始まりだろうか。そのどちらでもないのだろうか。何度となく際限なく自分に重ねた問いだった。神候補に選ばれた子ども達による神を選ぶ為のバトル、――自らが二歳で地上に落とされた理由と、それに参加することによって得られるものを父親だと名乗ったマーガレットの口から伝えられるまでは。

 空白の才。優勝しそれを得ることができれば、一つだけ、望むままにどんな能力でも手にすることができるのだという。世界を変えるだけの力でも、この世界を消滅させる為の力であっても。バトルの説明を初めて聞かされた時の心情はとても言葉には出来ない。これまでに生きてきた理由、抱くべき目的を、ようやく与えられたのだとロベルトは思った。残るのがどれだけ短い時間であっても構わなかった。目を開けても暗闇が広がるばかりの日々を、全てこの手で終えられるのなら。
 マーガレットから与えられた、ロベルトが手にした能力はほとんど無敵と称するに相応しいものだった。“理想”を“現実”に変える能力。対象は無機物に限定され、能力が及ぶのはそれらが本来持つ機能に限られていたが、それでもその効力は圧倒的に過ぎる。目標と定めた場所へ絶対に命中する砲撃。どんな攻撃も防ぐことができる盾。威力と比例して限定条件も厳しく、一度能力を使う度に寿命を一年引換えにすることになると聞かされた時もロベルトに躊躇いは浮かばなかった。むしろ無駄に消費されていくばかりの時間を自由に費やせるのだと思えば、開放感にも似た清々しささえ感じていた。

 十団を作ったのは、あくまでマーガレットの助言を受け入れたに過ぎない。君の心情もわかるが、弱い相手を片付ける時にまで君の命を削ることはないだろう? 簡単に感情を推し量ることはできない一律な笑顔で、それでも告げられた言葉には気遣う響きがあるように聞こえた。人間とは違う、天界人同士だという感覚もあったのだろうか。離れていた十二年の歳月は長い。利害の一致による結び付きに過ぎず、形として父さんと呼びかけ、息子として接されているだけだ。頭ではそう割り切っているつもりでも、どこかで心を傾け出している自分にも気付いていた。強制の強さがない言葉に大人しく従ってしまった理由もおそらくはその一点に集約される。その感情に当て嵌まるはずの名を、しかしロベルトは決して思い浮かべはしなかった。
 ロベルトへ忠誠を誓い、ロベルトの敵を排除する為に動く十人の能力者。見返りとして、無に帰した後の世界に理想の地位をあげようとは、当初はマーガレットが告げていた言葉だった。人間界も人間も全て消滅させることがロベルトの夢であったのでそれははっきりと空言であったが、耳にしてもあえて否定もしなかった。ロベルトの本心を理解した上での言葉であるなら、人間を消滅させる夢の為に人間を欺いて利用するという構図はひどく滑稽で、甚く快い思いつきに思えたからだ。

 マーガレットに見出されてからの出来事は全てが予定調和のうちに存在していた。静かで、見せかけだけは穏やかにぬるんだ日々。誰も逆らわず、誰も口答えをしない。誰も声を荒げず、誰も決して反論をしない。ロベルトの目前に新たに開けた世界はどこまでも白々として、何を留めることもなくロベルトの意識の端を過ぎていった。
 参謀に指名したカールが十団のメンバーとして連れてきた一人。佐野と顔合わせと称して対面をした際に、頭を下げるでも言葉で阿るでもなく、遠慮の欠片もなく険しい眼差しをぶつけられて初めて、ロベルトは自分が単調な繰り返しに飽いていたことに気付いた。絶妙なタイミングで、暇潰しに最適な玩具を手に入れることが出来たのだと考え、久方ぶりに心が浮き立つ感覚を楽しんでいた。ロベルトの中で、佐野との遭遇はその程度のことに過ぎなかった。



*

「佐野くんは、集団行動は嫌いなの」
 形ばかり口をつけた磁器製のティーカップをゆっくりとソーサーへ置く。その数日ロベルトが好んで選んでいた茶葉には柑橘系のピールがブレンドされていて、立ち上る香りだけでも甘い。
 そう大きいテーブルではなかったが、一番離れた席に腰を下ろして窓の外を眺めていた佐野が、ロベルトの声にようやく気のない視線を向ける。出かけようとしていたところを呼び止められて、ロベルトに付き合わされている現状にはあからさまに不愉快そうな表情だ。目の前に置かれたカップにも手を触れてもいない。誘いの言葉は一蹴されてしまったので、この状況は佐野の自由意志ではなく、命令として繰り返したロベルトの言葉に従って留まっているに過ぎない。
 十団に入る条件として、佐野に関しては規約などほとんどないに等しかった。もっと別の、根本的に彼が裏切れないだろう弱みを抑えているからだが、ロベルトはそれを外面的には佐野への信頼として差し出してみせた。形ばかりのものであっても効果は絶大で、十団のメンバーにも佐野が特別な立場であることは理解されているようだった。唯一、ロベルトの命令には服従すること、それだけが佐野には絶対の制約として課されている。命じられれば逆らわない。黙って従うが、それらの行為に対して不快の色を隠すこともない。佐野の行動はいつでも一貫している。あくまで約束事だけが忠実に守られていく。
「一人で動くのは効率が悪いと思わない?」
 佐野には適用されていないが、十団の決まりごとの一つとして、能力者と対峙する時は二人一組で当たることになっている。勝利の確実性を高める為だが、一人でも多くの人数を倒したいと強く思っているのはむしろ誰よりも佐野だろう。純粋な疑問から問いかけて、沈黙している間の佐野の様子をロベルトは興味深く見つめる。
「群れとっても、動きづらくなるだけや」
 少しの間を置いて、淡々と言葉が返される。短く考えられた時間に佐野が何を思い浮かべたのかはロベルトにはわからない。ただ変わらない表情に漠然と想像するだけだ。
「そうかもしれないけど。でも、佐野くんの場合は相手によるんじゃないの?」
 たとえば、君の神候補とか。続けかけた言葉は言い終える前に、ロベルトは睨み付けられていた。軋んだ音を立てた椅子から、けれどまだ佐野は立ち上がることをしない。人質にとった彼の親友の名前を口にしないことがラインだとロベルトは知っている。それ以上は続けずに視線で答えを促せば、やがて硬質な表情で佐野は顔を逸らす。
「あいつとは群れてたわけやない」
 踏み込まれるのは不快なのだろう。感情を押し殺そうとしても完全には上手くいかなかったのか、苦い口調で返される。もちろんそうだ。神候補が能力を与えた担当の中学生を見守ることは当然で、別段特別なことではありえない。
「そうだよね。人間と天界人が親しくなるなんて不可能だし、相手が目的の為に仕方なく一緒に居たんなら群れるとは言えないかな」
 口調ではにこやかに告げながら、ロベルトは佐野を見る。自分の言葉が相手に与える影響を楽しむ為に、注意深く表情を観察する。一瞬だけ開かれた佐野の瞳は、すぐにまばたく仕草に隠されてしまった。それでも反論はしない。元々相手の心情を明確に理解し合えることなどありえないのだから、何を言われても、これも当然のはずだ。
「佐野くんは正しいよ。他人なんて信じられるはずがないんだから」
 にっこりと笑いかけて、ロベルトはまだ温かい紅茶を一口飲んだ。喉に落ちていく甘さを楽しみながら、カップの端をわずかに指でなぞる。茶葉には青い花びらが混ぜられていた。乾燥してもまだ鮮やかな色は、湯を注いだ一時だけティーポッドの中で不自由に舞っていた。人工的に手を加えられた香りも無意味な時間の浪費には適しているようにロベルトには思えた。戯れに角砂糖を二つばかり足して、ロベルトは白いカップを揺らす。丸く区切られた円の中で、深い赤を溶かし込んだ水の色がじわりと濃く揺らいでいくのを眺める。
「……おれは、誰も信じてへんわけやないで」
 硬い声を落とされて、ロベルトは顔を上げた。佐野の視線はロベルトには向けられず沈められたままだが、微動だにしない横顔には発言を取り消す気もないのだと知れた。佐野がロベルトに決定的には抗えずにいる、今ここに留まっている理由。声を荒げることはなくても、伏せられた目蓋には否定を許さない強さがある。ロベルトの言葉に対する明確な拒絶。彼が誰を信じていると言いたいのかなんてあえて訊ねるまでもない。
「信じてるのが、君だけでも?」
 誰であっても、何の事情も説明しないで、傍を離れていった相手を信じていられるはずがない。裏切られた、利用されたと考えるのが妥当なはずだ。そうでなければならないとロベルトは思っている。薄く笑う口調で問いかけて、じっと見つめる視線の先で、ロベルトを見ようとはしない佐野の顔色はいくらか白さを増したように見えた。
「ええねん。おれが信じとるだけや」
 吐き出すように口にされた言葉は、或いは自嘲だっただろうか。天才と称されている、能力を使った戦闘での佐野の賢明さを思えばロベルトには不可解に思えてならない思考だ。出逢ってまだ数ヶ月の、それも自分とは全く別の世界から唐突に訪れた相手をどうすればそこまで信じられるのだろう。
 到底理解が及ばない。人間の愚かさを嫌というほど知っていたはずのロベルトの中でも、佐野は全く異質な存在だった。確かに強いのに、自ら弱さを内包してそれを手放そうとはしない。頑なに抱え込んで自分自身まで傷つけていく。けれども完全な自由がない状況でも、決して佐野が自分の意思を揺らがせることはない。たとえ命令の下であっても、佐野の選択は常に佐野自身によるもので、そこにロベルトが介入する余地はないのだ。
「わからないな」
 ため息混じりにささやいて、ロベルトは肩を竦めてみせた。他の誰よりも速いペースで能力者を減らしている、佐野の強さを否定することはできない。ロベルトの思う強さとは不釣り合いな事由から生じている、今の佐野の在り方が正しいとは思えないのに。
「せやな。――お前はそうやろな」
 頬を歪めて、佐野が微かに笑う。笑顔というには酷すぎる表情だ。口をつけはしなくても、ロベルトが注いだカップから立ち上る香りは同じく佐野を取り巻いているだろう。甘く鼻について離れない、狭い空間で近く感覚を共有しているはずなのに、ロベルトには佐野との間には他の誰よりも遥かな隔たりがあると感じられた。
 ロベルトが好ましいと感じている、たとえばこの香りも佐野にとっては不快なものでしかないのだろうか。ロベルトは薄らと考える。けれども佐野の心情など、もちろんロベルトには少しも思い描くことはできない。
 視線の向こうで、佐野が思い出したようにカップに手を伸ばした。すでに冷め始めていたのか疎雑な仕草で一息に飲み干して、それで終わりとばかりに席を立つ。
「行ってらっしゃい」
 約束された条件を満たす為に、ほとんど無差別に標的を据えてまた誰かを倒しに行く。扉へ向けて足早にロベルトの脇を通り過ぎていこうとする佐野に言葉を投げれば、鼻白んだように佐野の気配が揺れた。
「……ああ」
 会話として、律儀に返される佐野の声はロベルトの中に静かに積み重ねられていく。ふとした瞬間に思い返す、これも佐野に関するロベルトの記憶の断片のひとつだ。



*

 この世界を壊したいのだと佐野に告げた時、ロベルトは表層には乾いた反応を返されたことを覚えている。他の顔触れとは違い、ロベルトの語る偽りの未来と佐野が十団に組する理由とは欠片も関連がなかった。卑怯なことや曲がったことを嫌う、正しく真っ当に在ろうとする佐野からすれば到底受け入れられない言葉だったはずだ。けれども少しばかり見開かれた佐野の瞳は、すぐに無言のまま眇められてしまった。
「……意外だな」
 言うなれば、ロベルトと佐野に当て嵌まるのは悪者とそれに抗する立ち位置だ。唯一綺麗事を語れるはずの立場で、いくらかの反論くらいは返されるかと思っていたので、ロベルトは興味深く目の前の佐野の反応を見つめた。
「何がや」
 不機嫌に半眼。他愛ない会話であっても佐野から一方的に断ち切ることはない。真意ではすぐにでも立ち去りたいのだとしても、ロベルトがそれを望まない限りはいくらでも無為な時間を続けることが出来る。
「君は世界がどうなっても興味なんてないの?」
 ロベルトは緩く首を傾げて問いかける。邪気の無い表情を作ってみせるのは容易だった。胡乱げな眼差しで返されて、目を逸らすでもなくただロベルトは待つ。
「……おれがどう思おうと、お前には関係あらへんやろ」
 早く切り上げたい事もあってか、沈黙には先に佐野が折れて焦れたように声を落とした。表面上ロベルトへ従うことを迎合している他の団員とは異なる。反意を隠そうともしない態度。強い視線は、今の境遇にあっても変わる素振りがない。ロベルトは見る度にじわじわと脳髄を侵されるような感覚がしていた。意地悪く、手酷く傷つけて、その瞳を揺るがしてやりたいという衝動にだ。佐野にとっては理不尽なばかりの感情も、ロベルトにはひどく新鮮なものに感じられていた。
「そんなことないよ」
 にこやかに笑顔を浮かべて続ける。数歩近づいて頬へ触れさせるように伸ばした手のひらは、想定していた通りの頑なな態度で振り払われた。弾かれたまま手を留めて、ロベルトはまだそれ以上踏み込みはしなかった。繰り返せば命令と同じだ。ロベルトが真実望めば、それがどんな気まぐれでも、佐野がそれ以上は抗えないところまでいつでも追い詰めることが出来ると確信がある。
「君の考えてることが知りたいんだ」
 微笑んで、あくまで優しい表情を装ってロベルトは佐野を眺める。若干の戸惑いと、それよりも数段強い苛立ちを含んだ瞳で見据えられて、ますます抑えきれない笑みがこぼれる。
「十団のみんなのこと。世界を滅ぼしてでも欲しいものがあるなんて、馬鹿みたいだと思ってるんじゃないの?」
 響きだけは穏やかな声で言えば、不意を打たれたように佐野の表情が揺らいだ。見つめ続けるロベルトの視線の先で、やがて佐野はため息のように声を吐き出す。
「おれかて、同じやろ」
 抑えた声音で口にされた言葉にはロベルトは頬を緩ませて笑った。満足感と共に相反してはっきりとした苛立ちを覚えながら、そのことさえ得難い感覚だとどこかで感じていた。

TITLE:近づけば近づくほど
loca:あいうえお44題