頬を撫でて過ぎた風に空を仰げば、眩しく光を振り撒いていた太陽にちょうど雲が掛かるところだった。ゆったりとした流れで空を渡る、落ちる影は穏やかに足元を過ぎていく。

 街道からいくらか中に入った通り、坂下に面した小さな公園は、高低差から一面を壁に覆われたような造りになっている。それまでは通り過ぎるばかりで足を踏み入れたことなどなかったが、喧騒をどこか遠くに追いやったように、周囲は閑散としていた。遊具も数えるほどにしかない。ぽつりぽつりと置かれたベンチと片隅にある砂場、それに面して慎ましく広げられたブランコといった程度。長く影を落とす備え付けられた時計台の時刻を見遣れば、指定された時間までにはまだいくらか余裕があった。壁に背を預ける形で、シンはそっと息を吐き出して瞳を閉じる。

 休日である今日を、シンは人と会う約束をしていた。数日前から抑えようもなくそわそわとしていて、友人たちの誰にも何があるのかと勘繰られる始末。常日頃から早起きであるルームメイトには、珍しく携帯のアラームが鳴る前に起き出したことには何か察するものがあっただろうとは思うものの、元より口数の少ない相手であったので、出掛けにも特に何を言うこともなく静かに見送られた。どうにも逸る心があって、何か忘れ物をしているような気がしながらも落ち着かなく部屋を出ようとしたところを腕を引き止められて、すっかりと失念していたマフラーをくるりと巻かれたくらいのものだ。バレンタインにメイリンとルナマリアの共同出資で送られた、レイとは色違いのシンプルなデザインの真白いそれは確かにあたたかく、シンもそれなりに重宝している。雪の季節はもう過ぎたのかもしれない、けれども春が近いとは到底思われない寒さにも、空は綺麗に晴れ上がっていた。

 遠くから、誰かの携帯からだろうか、細く、単音で緩やかな調べに聞こえてくるメロディがあった。何処かで聞いたことがあるとシンは思った。思って、すぐに思考をやめる。顔を上げる。単調であるはずの、聞き違えではなく、足音がまろぶように近づいてくる。

「ステラ!」

 背を離す、笑みが上るままに笑顔を向けて駆け寄った。数歩の距離を置いて、少女もゆっくりとした動作で瞳を返す、足をとめる。

「…シン」

 小さく、名前を呼ばれて破顔した。少女はいつも、言葉のひとつひとつをとても大切に音にする。そういったふうに、名前ひとつ呼ばれるだけであたためられる心があることを、もうずっと、シンが忘れていたことを思い出させてくれたのは、以前にも呼ばれた、少女の細く儚い声だった。大切なもののように。あまり言葉を重ねないかわりに、時折落とされるひとつひとつがひどく貴重な、聞き落としてはならないもののように思えて、ステラといるとき、シンは無意識にもそっと呼吸をした。どんなあえかな声も、ゆるく瞳のまばたく仕草も、少女から示される全てを大事にしたいと思う。うまく言葉を返すこともできない不器用さでも、懸命に言葉を向ける。

「でもよかった。こんなふうに待ち合わせなんてしたことなかったから、もし会えなかったらって、心配だったんだ」

 間近に瞳を覗き込む仕草で、ふわふわとしたやわらかな金髪がまだ揺れているのを、シンは薄く目を細めて見やる。

「来てくれて、嬉しい」

 まっすぐに瞳を見つめられたまま、淡く微笑みを向けると、ゆっくりとまばたいた瞳が不思議そうに映り込んだ色を揺らした。

「……うれしい?」
「…うん、嬉しい」

 そっと、大切に繰り返す。もう一度、瞬きをしたステラの瞳がふ、と笑みに緩んで、合わされた視線は逸らせないまま、目尻には熱が上るような気がした。返された、いくらか遅れてこくりと頷く仕種には、それを同意と捉えてシンは嬉しく微笑んだ。

 今までは、もうずっと、胸をすぎるのは全て記憶だった。今はつらいばかりの、かつての幸せの、それらは常に傍らにあった。懐かしく響く声にも、耳をふさぐことすらできずにいた。いとおしかった、大切だったからだ。いつまでも、共にありたかった。それらを、今も遠ざけられたわけではないのに、ステラといるとき、シンは以前よりもずっとあたたかく思い返せるようになっていることに気づく。ふとした折に向けられる、あえかな表情の、あれらはなんて貴かったことだろう。失われてしまったもの、もう二度と、触れられないものだとしても、忘れたくはないのだ。ただ、引き裂かれるような苦しみではなくて、たくさんの思い出と、やさしい哀しみだけが残るのならいい。思い返される痛みにも、シンは静かに笑う。

 薄手の、水色のコートを着ているステラの腕がゆるりと上がって、一歩を近づいた。そっと頬に触れる指先は、約束の時間よりも遥かに前からを待っていた、冷えきったシンの肌にはひどくやさしく、あたたかい。そうして目を見張るようにしてわずかに動きをとめていた、シンは不意に、下ろされているステラの右手の先が、冷えた空気にさらされて寒々しく真白くあるのを見とめた。

「、あのさ」

 できるだけやさしく、丁寧な所作で頬に添えられた手の上に掌を置く。重ねる。指先で包み込むようにして、それから声を落とした。

「…手、繋いでも、いい?」

 不思議そうな表情で、シンを見上げる瞳。手に手を絡ませたまま、振り解くこともなく、じっと見つめ返される。

「嫌なら、いいんだけど、」

 躊躇いつつも落とした言葉には、けれどゆるく、一度だけ首を振られる。目を開く、瞬きをしてから、シンはふわりと頬を緩ませて笑った。

「…ありがとう」

 小さく口にしたつぶやきには、ステラは何のことを言われているのかわからないようで、きょとんと瞳を丸くするばかりだった。




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