パラレル本お蔵入り話・ラクスがおひめさま




























 ラクスは夢を見た。春の光の中、みどりの森の深く、湖は青い水を湛えて美しく、甘く薫る風はふわり傍らをよぎる。
 光があふれている。流れる髪のそのままに、ラクスははてしない空を見る。広く、限りない世界の中、その中のひとつの存在としてそこに在る、そのことを感じている。
 どれだけ頑冥に石を組み、城を、国を築き、歳月をかけた人の営みも、自然そのままにある美しさにはもとよりかなうべくもない。
 ふいに吹き上げた風、豊かな薄紅の髪を乱し、青く輝く水面には波紋が広がり、さざ波の立つ。光の加減か、せつな淡い紫の色を湛えた湖に、ラクスは胸をつかれた。
 そこで目覚めた。室内の闇は深く、とうに火の消えたランプのガラスが、わずかに月の光を反射するばかり。まだ夜明けは遥かに遠く、定められた就寝時間に従い自室へと辞したのはおそらくはわずかに前、ほとんど時の経過してはいないだろう。短い眠り、短い夢の中、けれど目にした情景は心にやきついて離れない。ゆるやかにしめつけられるような、それは胸の深くにまで、なつかしさにも似たあたたかみを残した。
 夢のなごりに、ラクスはそっと瞼をおろす。まだ鮮明な色、淡く揺らめいた紫、心がざわめいて、瞳は無意識にも窓の外へと向かう。そのまま、気づけば部屋を抜け出していた。

 薄い夜着の上にショールをはおり、限られたもののみが知る抜け道を抜け、物心ついてからついぞしたことのない類の振舞いに、それでも足はとまらない。踏みしめる、やわらかな草と土の感触や、夜の深みに静まりかえる、風もない、菩提樹の森の中を、ひっそりと、息さえもつめて歩く。静寂の中、井戸の底のような沈黙の世界に、けれど樹に寄りかかるようにして立つ人間がいることに気づいた。
 自らと変わらないほどの背丈には、まだ青年と呼ぶには幼いのだと知れる。うつむいた顔は影がかかってよく見えない。まとう上衣は月の光に仄白く、夜の戸張にひそやかに浮かぶ。

「こんばんは」

 呼びかけた声にもこたえはない。

「こんなところで、何をしてらっしゃるの?」

 言葉を続けながら、一歩を近づいた。沓の上からもはっきりとわかる、豊かに繁る草の感触、かすかに薫る草の匂い、静まりかえる、夜の気配。ゆっくりと頬へ伸ばした腕は、静かにはらわれた。けれど触れあったわずかな間、通い合った温度にラクスは微笑んだ。目の前にある彼は、少なくとも夢や幻ではないのだ。

「……無用心だね」

 ひそめられた、低い声が返り、ラクスは顔をあげた。彼はまだ闇の中に立っていて、顔もよくは見えない、けれど。

「城を、見ていたんだ」
「こんな遅くに?」
「僕にはふさわしい、時間だからね」

 ひそりと落ちる静かな声、うつむくようだった顔を、彼はふいに上げた。
 唐突に近づいた距離で、ショールの上から、あたたかな布の感触がふわりと肌に落とされる。

「そんな格好では、風邪をひくよ」

 ささやきと共に影は離れた。あっさりと向けられた、遠ざかろうとする背に、ラクスは声を投げる。

「あなたの、お名前は?」

 音もなく、彼は立ち止まる。少しの沈黙に、迷うような声が続いた。

「……君は?」
「私は、ラクスですわ」
「、そう…」

 振り返らないまま、けれどかすかに、彼は微笑んだのだったか。

「…キラ、だよ」

 硬質な気配のやわらいだ声は、耳にあまやかな余韻を残した。そのまま、闇にまぎれてかき消えた背を、ラクスはいつまでも見ていた。まるで夢のような触れ合い、けれど肩に残されている上着は、ラクスのものではない、確かに彼のまとっていたものだ。
 あたたかな温もりに、ラクスは包まれていた。動けないまま、立ち尽くす身体も。誰に開かせたこともない、胸の奥、遥かな深みまでも。




B A C K