空には細く雲が流れている。夕暮れの一歩を手前。地表に近い場所からを赤く、ゆるやかに色は侵蝕をしていく。視界を色づける風景は確かに美しくまぶしいほどだ。懐かしい記憶に重なるような、人工のものでないそれにもまるで劣らないようにある空を、シンは見つめている。
 多くの誰かの声を意識の片隅で聞いていた。意味のない、ただの音として、喧騒の中を。いつも、ついこの間のことのように思い出せるのだ。母親や、父親の仕草、言葉遣い。子供の頃には小さな手を引いて歩いた。妹とは、とても仲がよかった。人懐こく、甘えたがりの性格はお前のせいだろうとよく父親は笑っていた。懐かしいと思えるほど遠くはない記憶のはずだ。プラントに渡り軍に志願をして、二年。
 シンは手を見る。昔よりは随分と大きくなった手のひら。ナイフや銃を持つことに慣れた指先。守りたいものの何ひとつを守れなかった、地面へと打ちつけ焼け焦げた大地を抉ったこの手は、あれから幾度も傷つき破れその皮を厚くした。軍人としての、両親やマユが喜ぶだろうとは到底思われないそれを、何と引き換えにしてでもとシンは切望した。
 息を吸う。空気。これもつくられたものなのだと不意に思い当たる。地球にいた頃は当たり前であったこと、自然そのままのもの、ナチュラルであるものか否か。意識する必要もないと思っていたことだった。そのままで生きていけたなら、それはどれだけ幸福なことだったろうか。
 意味もないはずのことを考えている自覚はあった。目蓋を閉じれば、浮かぶ。夢のことを思い出す。
 暗闇の中。立ち込める闇はあまりに重く、呼吸さえも圧迫をする。生きているものの誰もいないような漆黒の淵を、シンは立ち尽くしている。けれど辺りを見回せば遠く、ひとつだけ、やはり同じように立つ姿があった。何処かを見ている、濃く影の落ちた横顔。表情は見えなかったが、何の確証もなく、あれが仇だと不意に思った。
 振り返りはしない。その手はおそらくは血まみれで、通り過ぎた後に残る何をかえりみることもない。朽ちるむくろの脇を平然と通り過ぎる、踏み躙って、誰の死にも涙を流さない。そんな人間に生きる価値なんてないだろう。あれは人殺しだ。思う傍らで、強く耳鳴りのする。目が覚めたときもまだ指が震えていた。
 閉じていた目蓋を開く。息を吸い空を仰ぐ。白の気配を残していた雲も、もう薄赤く染まっていた。たなびいて色のわだかまる、眩むほどに遠い、憶えのある色には瞳を細める。
 間近に見開かれた双眸のあざやかさ。空のけぶるような。綺麗だと素直に思えたのは、本当に久しぶりのことだった。




真夜中の童話的10題 / 01.赤い空の下
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