幸福の定義なんてとても曖昧なものだ。過ぎ去ってしまった日々を懐かしむように失われたものを過去に見るのではなくて、その瞬間に感じているということ。今はもう何処かに属するわけでもない、彼の選んだ衣服は黒を基調としていた。笑顔はいつも変わらずにやさしい。けれどふとした折、視線に気づかずに伏せられたまなざしにはやはり、かつて彼の受けた傷の深く、未だ癒えぬことを知らしめていた。秘められた影のない心からの微笑みなどは、思えば一度も見たことはないのかもしれなかった。
 私が世界のものであるように、世界は私のもので、等しくあなたもと、母に語られた言葉を告げたときに向けられた瞳を思い出す。誰にも告げたことはない記憶だった。自らの存在さえも憂えていた彼を、命を、引き止めるための言葉であるならけれどいくらでも語っただろう。たとえ世界のすべてが彼を否定していたとしても、それでも。
 彼といるとき、どれほどの暗闇であってもあたたかなものはあるのだと知れた。彼といれば、暗く塞がれたはずのこの先の未来にも光を思えた。ただ、この世に生まれ落ち、生きているということの奇跡、それさえも途方もない幸福なのだと信じることができた。
 等しく死に逝く定めのものであるならば、それ以上の何を望む必要があるというのだろう。けれど、愚かしくも繰り返される歴史流される血を、互いに見過ごせる瞳ではないこともまた知っているのだ。




モノカキさんに30のお題 / 28.記憶
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