アスランアスランと繰り返し名前を呼ぶ声。親に呼ばれるよりも耳に馴染んでしまった、幼馴染の声だ。
 プラントでも同年代の子どもはいたけれど、アスランにとっては、親友と呼べるような相手はキラが初めてだった。
 父親を狙ったテロの波及を恐れ、母親に連れられた月面都市コペルニクスは、オーブの宇宙における自由中立都市として、地球連合・プラントのどちらにも属してはいなかった。キラとはその、月の幼年学校で出逢った。
 コーディネイターとナチュラルが当たり前に共にいる世界。父親に繋がるザラの名前が持つ意味を知らない、ナチュラルからコーディネイターへの確執を肌に触れるような身近には知らない、キラは中立国オーブ出身の、第一世代のコーディネイターだった。
 とは言え、個々の得手不得手はあるにしても、第一印象ではキラが自分と同じコーディネイターだとはアスランにはとても思えなかった。プラント国籍を持つコーディネイターは、13歳で成人と見なされる。それだけ総じて早熟であるはずなのに、アスランが受けるキラの印象はいつも幼かった。例えばナチュラルとしてなら、年相応と思えるような。お人よしで、泣き虫で、甘えたがりで――コーディネイターの中でも優秀とされていたアスランと比べても、運動神経や知的レベルはひけをとらないのに、危なっかしくて、次には何処へ行ってしまうかわからなくて、いつだって目が離せなかった。自然名前を呼ぶ回数も増えたし、キラが迷子にならないようにと手を繋いで歩いていたのを、弟が出来たみたいね、と母親に微笑まれたこともあった。
 名前を呼んで、呼びかけて、目が合えばそれだけで嬉しそうに笑う。母親譲りのアスランの目の色をキラは何故だか随分と気に入っていて、顔を寄せて、じっと覗き込まれることがよくあった。エメラルドグリーン、宝石の色と同じで、でもそれよりもずっと綺麗なのだと言って。そういうキラの、間近に見開かれた瞳は淡い紫で、光を受けてきらきらとその濃淡を変えていく。そんな距離には不慣れで、そんなふうに向けられる感情には不慣れで、戸惑いながらいつも目は逸らせなかった。
「アスラン、」
 目を開けて、見上げる位置に瞬かせた瞳が思い出の続きのように近かったので、目を細めながら手を持ち上げていた。額には触れない距離で、目の上へ長く落ちかかるキラの前髪を指先で掬う。くすぐったそうに目蓋を伏せる仕草と、微笑む吐息。目が悪くなると口にして、君はどうなのと笑われてしまったことが以前にもあった。前大戦の後、オーブにいた頃だ。
 アカツキ島の、マルキオ導師の元に身を寄せていたキラとラクスを、カガリと共に、折を見ては何度も訪ねた。あの頃、オーブに亡命した不確かな立場に抱いていたそれよりも、アスランの中ではキラへの不安のほうがずっと大きかった。目を伏せて、息をひそめるような静かな微笑み方に、何故だか距離を置かれているように感じていた。
 新しく変わっていこうとしているはずの世界に同期しようともがいている自分と、停滞した時間の中に佇んでいるキラと。キラが踏み出そうと思えた時の為に、自分はしっかりと立ってキラへと手を差し伸べていたかったのに、それだけではいつか手が届かなくなってしまいそうに思えた。戦う理由が揺らいでいた頃とは違う、前を見て進もうとしているのは自分のはずなのに、それでもキラに置いていかれるように感じていた。
 そう、――確かに、キラは変わった。大人びた笑い方をするようになったし、もうあの頃のように泣いたりはしない。戦場に在る今は、人の上に立って、迷いを見せずに正しく先へ進んでいく。それが誰にとっても正しい道かどうかは、アスランにはわからない。正義を掲げる人の数だけ理由があって、その中にキラやラクスの進む道もある。自由を許される世界の在り方を求めて、彼方を見据えている。カガリが言っていたように、願うものや夢は同じでも、アスランの道とキラの道はきっと同じようには重ならない。それをどこかでアスランはさびしいと感じている。キラの望む未来へ手を貸したいと願っていながら、もう帰ることはできない過去の日々を思うことが今もある。
 それでも、二度と間違えたくはないのだ。大切なものを守る事ができるなら。自分に掲げる正義があるとしたら、本当はずっとそれだけだった。

 静かな微笑みの中に、幼いキラの表情が重なる。目を腫らすほど泣いた後でも泣いてないと言い張ったり、そのくせアスランが泣けないときにはキラがそれ以上に泣いてくれた。仕事で多忙だったアスランの母親が帰れない日には、キラの家に泊まっていても、キラはアスランの手を握って傍を離れなかった。けれども握り締めた小さな手のひらを、離したくなかったのはアスランのほうだ。大切で、大切で、いつだって、何より貴く感じていた。
 思い出の面影を見つめて――ああ、そうか、と不意に思う。
「同じなんだな…」
 苦笑しただけのつもりが、そのまま口に出ていたようで、目の前のキラにかすかに首を傾げられる。あの頃とは違って、今のキラにはきっと一方的なばかりの思いだ。それとも、せめて夢の中でくらい口にしても許してくれるだろうか。
「……おれが守りたいから、傍にいるんだ」
 第一世代だったキラ。第二世代のアスランとは違い、キラの両親であるヤマト夫妻はナチュラルだった。知っていたはずのことでも、今なら少しは、あの頃のキラの幼さがわかるような気がする。
 あの頃のように隣にはいられなくても。もう二度と、同じにはなれなくても。
 同じように、今なら守れるものもあるのかもしれない。そうだったらと思う。
「キラが笑ってくれる世界を、おれは守るよ」
 微笑んで、ささやいた。動きを止めたキラの肩で、今まで沈黙を保っていた機械の鳥がトリィ、と小さくさえずる。子どもの頃キラの為にアスランが作った、キラが好きだと言った緑色に染められた鳥は、今も変わらずに、首を傾げるようにキラの頬へ顔を寄せる。
(――首傾げて、鳴いて、…肩に乗って、飛ぶよ……?)
 本当に戦争になるなんてことはないと、キラに言いながら、誰よりもそれを信じたかったのは自分だった。プラントへ戻ることになったと告げたときの、哀しそうに伏せられた母親の瞳。プラントと地球に離れれば、戦争になれば、もう二度とキラに会うことはできないかもしれない。今にも泣き出しそうに瞳を潤ませていたキラに向けて、トリィを手渡しながら、キラが泣かないように、幼い自分は精一杯笑顔を作ってみせた。
 別離の記憶と入り混じって、目を細めるキラの表情が泣きそうに見えて、手を伸ばす。今はここにいる。傍に、手の届く距離にいる。引き寄せてもキラからの抵抗はなく、そのままアスランの胸の上にキラが顔を伏せる形になった。かき混ぜた髪の感触もあの頃と変わらなくて、目蓋を引き下ろしながら、ひどく幸せな気持ちでアスランは笑った。




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