天候の定まらない、曖昧な狭間の季節だった。もうそこまでに来ているのだろう冬の気配も、ここ数日続いている雨には霞んで、沈黙に沈み込んでいる。息を吐き出して視線を上げれば、ひそやかに濡らされていく空が見えた。

 時折吹き過ぎる風には、頬にかかる髪は吹かれて撓み、煽られる。気にとめるほどのものでもない干渉。自然のものでも、或いはそうでなくてもさして心にも残らない。子供の頃から身近に馴染んでしまえば、あからさまに不自然な事柄でも気付かない素振りのまま見過ごすことには長けた。距離を置いて控えめな街灯が連なる、舗装のされた道の上を歩く足を、けれどアスランは不意に止めた。

 わずかな傾斜、石壁に囲まれた数メートルの距離を、両脇から頭上を連なる木々はしめやかに続く雨粒のほとんどを遮って、覆うように枝を伸ばしていた。揺らぎ、戯れる葉のさざめき、雨音と、それ以外に残る音はない。三つ辻の先にある街灯の光は白々と明るい。そして、そこに至るまでは夜に塗り込められているように闇が蟠っている。

 ひら、と、濡れた葉が目前を落ちた。ゆるゆると、緩慢な足取りで数歩を進めれば、またひとつ。触れた水溜りにあえかな波紋を落とす様も、見るともなしに見ていた。その水面に映り込むのはただ黒色、木々の影ばかりであっても。

「……何か、俺に用?」

 諦めを含んだ溜息を落として、口を開く。そう大きな声ではなくても、届くのだろうことは知っていた。意識で認めなければ、存在の定かでさえないもの。あろうと思えば何処にでもあれるのだろうし、消えれば痕跡も何も残らない。子供の頃は時折、アスランはそういった人には見えないものを視界に掠めた。理屈で説明できることだけが全てだと信じている、父へと告げたことはないが、母はよくその視線を追っては瞳を細めていた。見えるものはあるのだし、聞こえるものは響いている。関わりたくないと感じるのなら、素知らぬ振りをしていればいいのだと、秘め事のように微笑まれたこともある。

 間近い、ふとした暗がりにある気配。過ぎる風、よぎる影、明暗の狭間にある何か。意識を留めなくても、それらが摂理を外れて確かに在るものなのだとは漠然と感じていた。否定しようと考えたこともない。ただ、ここまでにはっきりと気配を感じたこともなかった。

「やっぱり、」

 聞こえたものが、空気を震わせたそれなのか、あるいは意識に響いたものなのかは判然としなかった。感覚ではいくらか音の高い、少年のような声だと感じた。それが、まるで人と変わらぬ音で親しげに続ける。

「君は目立つね」

 ごうと、強く風が吹き抜けて続く、羽ばたきのような音が走る。反射に目蓋を引き下ろし、それから撥ねるように視線を上げた。数歩の先、暗がりの中に、石壁に寄りかかるようにして立っていた。 背丈は同じ程だろうか、アスランよりはいくらか低いかもしれない。顔を上げ、無造作にこちらへ踏み出して、そうすれば影に隠れていた表情もうすらと照らされて見えた。声とも変わらない、人の姿だ。茶の髪は、まるで人のそれと変わらない自由さで風に戯れていた。夜空に光を溶かし込んだような、双眸はやわらかに細めて、微笑みを向けられる。

「こんばんは」
「…ああ」

 曖昧に頷く間にも、くるり、相手の視線は頭上を振り仰ぐ。瞳に光がさして、紫が瞬いた。

「――君の名前、なんだっけ、さっきから思い出せなくて」

 問いかけとは呼べない口調で告げられて、それには怪訝に眼差しを返す。

「名乗った覚えは、ないな」
「教えてもらったんだ。君からじゃないけど、」

 君がまだ小さかった頃。もっと、ずっと前に。

 独り言のようにささやいて、すっと瞼を伏せる。向こう側から、遠く見える灯りがいっそうに陰影を落とす。横顔は思いのほか幼かった。頼りない風情で、けれどもその目をほんの一瞬かすめた影を、アスランは見止めてしまった。

 錯覚とも呼べない。人ではないと知っているのに、胸をかすめた感慨に違和感もなかった。おもむろに手を伸ばせば指は腕に触れ、まとっている布の感触に触れる。

「お前、名前は?」

 掴んだ腕を引けばあっさりと距離は近づいた。やはりほとんど背丈は変わらない。戸惑うような視線には瞳を返して、もう一度。

「一方的に知られてるってのは、本意じゃないんだ」

 瞬き、見開かせた瞳をゆるめられたのも一瞬。次には、目の前の光景が瞬間的に飛んだ。強く、こめかみを掠めて衝撃が行き過ぎる。手のひらにも、感触も残さずに消えた。地に濡れ落ちた幾枚かの葉は勢い舞いあがり、影へと紛れていくのが見えた。

 ゆるゆると息を落とす。ひらいた手のひらの中に視線を向けて、また顔を上げる。息をついて、何事もなかった素振りで歩き出す。大気のざわめき、風の音、先程までよりも穎敏に澄んだ感覚に行き過ぎる。そもそも、思い返せば今日に限ってこの道を選んだ理由も見えない、浮かばないのだ。きっかけを作ってしまったのだろうと、予感はあった。




T-mrd / 雰囲気的な10の御題:彩 04.
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