どれほど目をつむっていたろうか。押さえていた掌を外してまぶたを開けば、上下のまつ毛は涙に繋がり互いにはりつき、未練がましく離れていった。
 激動だった。けれど終わった。キラは思った。まぶたを押さえつけていただけの涙はこぼれずに、かすかに視界を滲ませる。外界をとざし、立ち尽くしたエターナルの展望デッキには、心なしか落とされた照明に背を向ければ、硝子一枚を隔てた宇宙(そら)がひどく近い。見ることもかなわないはるか、かつてキラの横にいた紅の髪を持つ少女はその果てだ。もう決して、届くことはない。
 キラが、殺したようなものだった。キラという存在が、彼女と関わりを持ったそのことが、殺した。キラの目の前で、散らされた。ただひとり、キラの痛みを、苦しみを、誰よりも近くで共有していた少女だった。
 耐えようもない苦痛を、けれどもう、表情に出すことはしない。微笑みも、最期の瞬間のその表情までも、あまりにも鮮やかに網膜に焼き付いている。それをひとり見つめ、やがて静かに、キラはうつむく。
「キラ」
 背後から声が掛かった。目を向ける。視界は眩む。あえかな光に向けて、キラはまぶたを細めた。やわらかな照明の下からこちらの暗闇へ歩いてくる、アスランを見た。
「……キラ」
 もう一度呼ばれた。特に用事がある風ではない、ただ気遣わしげな声だ。こういう呼び方をするようなときの彼はひどく聡くて、幼い頃は、いつも、キラが偽りきれることなどは決してなかった。
「…なに?」
 そっと、でき得る限りのやさしい声で答える。アスランは近づいてきて、わずかのぞき込むように見下ろした。短い沈黙。そしてそれを破る。
「…さがしたよ」
 小さく微笑んで、伸ばされた指はかすかにキラの頬に触れる。そのまま、合わせた瞳をそらさずに、その上へかすかに落ちた影までもゆっくりと優しいまなざしに変えて、アスランはキラを見た。
「……うん」
 キラは小さく頷く。心配を、かけているのだろう。きっとラクスや、カガリにもだ。みんな、それぞれに、それぞれの痛みを抱えていることに、変わりはないのに。…アスランはいつも何も言いはしなかったが、そんなことはキラにもわかっていた。
「…うん」
 もう一度言い、唇の端をかすかにひき上げて無理やりに微笑みを深くする。
「…さがしたんだ」
 アスランももう一度言った。先のそれよりもどこか幼い声だった。キラはそっとアスランから目を外し、足元に視線を落とす。この場所は、暗闇ながら、けれどもあたたかだった。
「……さびしいね」
 言葉にすれば感情は途端明確なかたちを持ってしまって、キラははかなく後悔した。けれどもこんなさみしささえも、それがどんな痛みを湛えていたとしても、キラには慈しむべきものだ。彼女の、残したものだ。
「…みんな、たくさん傷ついて」
 アスランは黙ってキラを見つめる。そのまま、衣擦れの音も立てないなめらかな動作で、腕の中へと抱き込んだ。キラはただ、言葉を続ける。
「……やっと、終わったのに」
 声は少し震えた。あのはかない強さを思うと胸は絞られる。泣かない瞳を思うとまぶたは熱くなる。かたくなに、ひとり立つ細い肩を思うと唇はわなないた。キラは無理にまぶたをおろす。
 サイや、ミリアリアや、彼女を知る誰もが少女の死に深く傷つき、残された痛みに苦しんでいる。けれどキラには、失われた、優しい思い出になどきっと永遠にすることができないのだ。互いにひとりきりで、どこにも救いなどはなかった。何に縋ることもできず、ただ、ともすれば肩の触れる距離で、まるで切実に、寄り添いあっていた。彼女を、追って。キラを想ってくれるひとたちが、こんなにも優しくなければそうできたかもしれない。あまりに澄んで、さびしい瞳をした幼なじみがこんなにもキラを気遣いなどしなければ、連れ立てたかもしれない。まるで心中じみた、そんな行いなど、かの少女には呆れはてて、鼻であしらわれたかもしれないが。
「…これからだよ」
 アスランが言った。キラはそらしていた顔をアスランの方に向けて、瞳をあわせる。アスランは、キラには遠い、眩しい笑顔で続けた。
「たどりつけなかった人たちの分も、俺たちが―――生きて、変えていくんだ」
「……そう、だね」
 かすかに笑んで、穏やかな声でキラはささやいた。アスランの瞳を見つめる。真っ直ぐで、どこまでも澄んだ。キラにはとても触れることのかなわない、やさしい色を。
「…そうだね」
 独白のようにキラは呟いた。アスランは黙って、キラの背へとまわした腕をわずかに強めた。廊下の遠くから、誰かの交わすかすかな話し声と、その後短い笑い声がきこえた。
 ここには、いない。紅の艶やかであった髪は見られない。今はまだ耳に鮮明にこだまする彼女の声、それはいつしかわずかな響きの記憶だけに薄れてしまうかもしれない。キラは目を閉じて、記憶に残るその声を追った。
 ここにはいない。けれどもまだ隣りにいる。だが目を開けても鮮やかな紅はそこに見当たらなかった。アスランを見て、そのあまりにやさしいまなざしに思わず泣きそうになったが、涙を流すのはひとりきりのときだけだとまたかたくなにまぶたを閉ざした。まぶたの裏側で、失われたその体温を、思った。




散文100のお題 / 62.優しい体温
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