敬礼を、する。生真面目な表情に、それでも口元で微笑むと、とうに見知った顔となっている給仕も微笑んで礼をした。
 限られた者だけに赦される赤い軍服は、ザフトの誇るトップガンの証だ。手狭な厨房で、時折肩が食器棚や調理人に擦れ、詫びると相手方は恐縮そうにした。
「やっぱり、狭い、ね」
 キラの直ぐ後ろを若い男が敬礼しつつ過ぎった。場所を選ばない律儀さに、キラも微笑んで首を折る。エリートの名にそぐわず、気安くある性質故か、配属されてまだ日が浅いにも関わらず、キラは誰にも慕われている。
「仮りの施設ですから、仕方が無いですよ」
 話を振られた給仕は悟った様にあっさり笑った。この敬愛すべき上官を、変わっているとは思えど、稀有な存在であることにも違いはない。
 不意に視線がそらされた。視線の先、トレイに揃えられた食事に目を向け、給仕はああと頷いた。
「捕虜の食事です。まあ、喉を通るかは、わかりませんが…」
 キラはわずかに目を細め、それから視線を戻した。穏やかな笑顔で、小さく首を傾げる。
「ぼくが持っていってもいいかな?」
 給仕は数度瞬き、それから緩く破顔した。
「本当に隊長は物好きですね」
「一度くらい、見ておこうかと思って」
 仕方無いですねと付け足された後、キラは質素な食事を一人分携えて厨房を背にした。




 硬質な床に靴音が堅く高く響く。単調な音が壁に反射し拡散し、やがて静けさが落ちる。
 ゆっくりと顔をあげたシャニは、牢の前、見慣れない色の軍服を見た。
「…なに」
 押し殺した呼吸の隙間、抑揚に欠けた声にも躊躇うそぶりはなく、静かにトレイが置かれる。
「食事です。それと、――――薬を」
 存外に幼い声とその言葉に、視線をあげれば静かなまなざしとかちあった。
「……薬?」
「錠剤で、作らせました。これだけあれば、しばらくは持つでしょうから」
 狭めた視界に、まっすぐに向けられる紫の双眸は瞬きもしない。
「…あなたが、生きたいのなら」
 それだけを言って、背を向ける。その刹那、わずかに歪められた表情は、苦痛に耐えるようにも、自嘲するようにも見えた。
 遠ざかる音に、シャニは壁にもたれたままの体を緩慢に引き起こす。握りしめていた手のひらにさらに爪が喰い込んだ。痛みはけれど絶え間なく体の奥底から全身へ走る。γーグリフェプタンの供給の途切れた体は、鉛のように重かった。




 メールを開くと平面フォログラムが起ち上がる。澄んだ空色のまなざしは、遥か距離を隔てても変わらずに鮮やかだ。キラはかすかに微笑んで、プラントに名高い歌姫が話すのを見遣った。精巧に肉声を復元したプログラムは、穏やかにキラのプラント本国への帰還を願う。賢明な彼女の真摯な瞳は、けれども時に言葉を裏切った。
 言わずにいることと言えずにいることを、おそらくは互いに知っていた。親友の婚約者と、婚約者の親友と。当人同士の取り決めたことではなく、未来の見えないコーディネイターの希望の象徴として定められた仲であるだけに、アスランとラクスの関係は、戦争で疲弊したプラントにおいて、立場上覆せないものがあった。
 けれども、望まれない関係では決してない。二人共に親しい立場のキラからしても、今はそれが友情ではあっても、時間を経てそこに愛情が育まれれば、次代のプラントを共に担う者として、誰よりも相応しい関係になれるのだろうと、そう、思われた。
 キラがいなければ、何も迷うことなどはなかったのだ。キラが新開発の行われている僻地へと配属されたのも、自ら希った部分が大きい。距離を置いて、変われるものならそれが一番望ましかった。
 ラクスの優しい笑顔に、フォログラムがメッセージの終わりを告げる。キラがメールボックスを閉じようとした矢先だ。はかったようなタイミングでアラートが基地内に鳴り渡った。キラは両目を閉じ、それからゆっくりと開いた。
 最早後戻りは出来ない。賭けとも言えなかった自分の行動は確かに賽を投げてしまった。アラートはよりその音を高くして響く。
 自室のドアが弾かれる様にして開いたとき、キラは小さく微笑んでさえいた。
「…馬鹿にしてんの?」
 無感情な声は、けれどもわずかに色を含んだ。地球連邦軍、というよりは、ブルーコスモスの私兵。後天的に特殊な手術が施されていること、薬物を定期的に投与しないと禁断症状に陥ることなどは、いくつかの回線を経由しブルーコスモスの子会社を介し、マザーコンピュータからキラが直接引き出した。名前は、シャニ・アンドラス。連携こそとれていなかったものの、他の二機と共にザフトに多くの犠牲をもたらした、フォビドゥンガンダムの、パイロット。
「……早かったね」
 静かに口にすれば、片方だけの紫の瞳がキラを見つめ、不意に歪んだ。唇の端をわずかに笑いの形に吊り上げ、酷薄なまなざしを向ける。
「こうなるように、仕向けたのはてめぇだろ」
 キラは苦笑した。牢からキラの自室まで、アラートに連動してシャッターが作動するようプログラムを書き換えたので、シャニは牢を出てからキラ以外の誰とも接触をしていない。ひとりも、犠牲者は出てはいない。シャニが賭けにのるかどうか、それが全てだった。そうして、彼は今ここにいる。
 だらりと垂れ下がる手のひらを、キラは見つめた。折れた爪と、食い込んだ傷跡と、流れ出た血で引き攣っているのか中途半端に指は曲がっていた。
「行こうか」
 キラは微笑んで、瞬く隙も与えずに、シャニの手のひらを掬った。




 ステージが進みすぎていると言われたのだったか。圧倒的劣勢に投入され、やがて動けなくなった機体ごと、廃棄されたも同然だった。薬があろうがなかろうが、多分もう長くはない。帰る場所は端からなく、行きたい場所も特にはなかった。
「…どこに向かってんの?」
 惰性で口にした言葉に、振り返った瞳はどこまでも真摯だ。やわらかく、光を反射して瞬いた紫に、刹那呼吸を忘れた。
「――――月だよ」




 地球軍の基地があった関係で、月にも戦争の傷痕はそこかしこに残り、大地は荒廃していた。居住区のドームは修復されたのか、酸素供給に不足はなかったが、薙ぎ払われはしなかった木々も、無残に立ち枯れている。暫定的な停戦協定が結ばれたとはいえ、しばらくは宇宙間の行き来は制限されるだろうし、月に人々の姿が戻るまでには時間が掛かるだろう。けれども枯れた幹に手を這わせ、そっと目を細めたキラの顔は穏やかだった。
「君は、地球へ帰る?」
 言ってキラは空を見つめる。その遥か先にある地球は、ひとつの青い星に見えた。
「シャトルも好きにしていいよ。ぼくは、もうどこにも行かないから」
 記録的には、捕虜の脱走に巻き込まれ、死亡。それで終わりだ。
「…それとも、ぼくを殺していく?」
 穏やかな表情のまま、まっすぐに視線を向ける。細い首筋へと伸ばした指にも、キラはされるままでいた。それから幹に押し付けるようにして、捕らえた腕にも抵抗はなかった。
 ゆっくりと、伏せられる睫を追って、くちびるを重ねた。どうせ死ぬのなら、何処で死のうと同じことだ。
 吹き上げられ空を舞う灰は、まるで花びらのように見えた。





散文100のお題 / 95.賽は投げられた
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