夜だった。一切れの雲もなく頭上に瞬くのは無数の星の光。飛ぶように流れていく景色にもステラが瞳を向けることはない。びゅうびゅうと吹きつける風になびく髪もそのままに、長く伏せていた瞳へと呼びかける声もどこか遠くのことのように聞いていた。
 不機嫌に景色を眺めているアウルを余所に、ミラー越し、スティングから気遣うように寒くないかと問われて首を振った。寒くはない。まるで大切なもののように、彼にくるまれた薄手の毛布は今もステラの身体を覆ってあたたかい。かばうように肩へとまわされていた腕の感触も、ステラにはいまだ鮮明にある。彼にも幾度も向けられた言葉。ステラの嫌う言葉に似た、けれどあたたかくやさしい瞳で。
 まっすぐに、彼はステラへと話しかけるときには逸らすことなくその赤い瞳で見つめた。まもると告げたときにも。何度でも、まもると、だから君は死なないと繰り返した。大切なものを手渡したときにだけ幾らか視線をさまよわせてはいて、それでもすぐに微笑みを向けてくれた。やさしく、おだやかな、それまでに経験のないようなあたたかな気持ちがしたのだ。二人あたっていた、火のぬくもりにも似た。
(…シン)
 名前。ステラをまもると言った、けれど彼は行ってしまった。厚い雲が垂れ込めるように、気持ちはみるみるとステラの心を塗り潰していく。まもるから、だからだいじょうぶだと。けれどもう一度会えるかどうかもステラにはわからない。会いに行くと叫んだ彼の言葉も、ひどく遠いことのように思える。
(シン)
 二人に促されることがなければ、そのままいつまでも立ち尽くしていたかもしれない。思い出したように傷の熱を持った足で、ステラが乗り込めば車はすぐに滑るように走り出した。ひたすらに後方へ流れていく景色。ところどころに置かれている街灯をのぞけば、どこにも深い闇が静かに横たわって何にも照らされることはない。きっとそれが、それまでにステラの知る世界の全てだった。ネオが、スティングやアウルがいる場所がステラのいる場所。そこにいたいと思える、それ以外に安心のできる場所などはなかったのに。
(…シン)
 手に手を重ねられて、頬へと引き寄せたときもあたたかなぬくもりがしていた。まっすぐに見つめ返してくれた瞳も、揺らぐことはない、本当にやわらかにやさしかった。思い返すだけで、今も胸にぬくもりのともるような気がした。
 そっとステラは瞳を伏せる。足の傷にと巻かれたハンカチへまなざしを向けた。彼はもう遠くへ行ってしまったけれど、それは今もステラの元に残されている。全て夢のことのようでも、ステラは知っている。彼と出合ったことだけは、決してやさしい幻ではないと。
 ステラはそのまま瞳を閉じる。目蓋の裏には笑顔を見る。遠く海からは繰り返される波の音がしていた。帰るべき場所にはまだ、着かない。




散文100のお題 / 20.耳を欹てて
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