空の端から夜が緩やかに薄れていく。頭上を覆うように、色彩を増していく情景が夜明けの訪れを告げる。早朝の、まだ誰もが穏やかな眠りの底に沈んでいる時刻だ。彼方からは、細く鳥の声が聞こえてくる。
 頬を過ぎていく、涼やかな風には瞳を細める。いくらか遠くを旋回していたトリィが舞い降りて、ふわりと肩にとまった。当時にプログラムされたままに、小さな友人は忠実にキラの傍に寄り添い続けてくれる。あれだけの日々を過ぎた今も。ほんのわずか、そうとわからぬほどに苦笑して、キラはまた一歩を踏み出した。足元では、さらさらとした砂がすぐに風に吹かれて消えてしまうばかりの跡を残す。
 目の前に広がるのは優しい明け方の、清涼なばかりの青だ。遠く、どこまでも続く海と空の境界は儚い薄紅の影を残している。もう幾度も繰り返し眺めた、地球の明け方の色だった。
「…アスラン、」
 振り向かずに呼んだ、名前にはすぐに苦笑する気配があった。一度瞼を伏せ、それから瞳を上げる。並ぶように隣に立った彼へと視線を向ける。
「いつも、こんな時間に?」
 気遣う素振りで、続けられた言葉には答えずに空へとまなざしを戻す。元より返答を期待した問いかけでもなかったのだろう、すぐに伏せられた瞳には確かに距離があった。かつてはあれほどに近くにあった、けれど今は遥かに遠い。向ける心も、抱く友情も変わらずに翳りがなくとも、言葉を重ねても思いは食い違うばかりで本意に掠ることもない。あるいはそのことにすら、アスランは気付いていないのだとしても。
「君こそ、どうしたの」
 言葉を向ければ、けれど戸惑うように声は遅れた。
「何か、あった?」
 意識して、キラは殊更にやさしい声を願う。いくらかでも、意識下では感じられるのだろう不協和音を和らげることができるならば。たとえ見せ掛けのものであっても、彼を取り巻くべき穏やかでやさしい世界に添うように。
「…少し、話したいことがあって」
 尚も躊躇うように、途切れた言葉の後には沈黙が訪れる。キラに向けて、彼の口を開かせるには重い事象。以前なら言葉にされるよりも先に、漠然と思い描くことはできただろうか。けれども今では、互いに簡単に言葉にできることのほうがきっと、余程少ないのだ。アスランの心を寸分でも軽くできるようなものを何も、何ひとつキラは持たないのだから。
 キラはそっと、空を仰いだ。それほどに時間が経過してもいない、全てはまだ朝へ届く狭間にある。やわらかな白い光に透けて、世界はひどく、何処までも美しく見えた。幻のようなやさしさだった。
「…カガリのこと?」
 きっかけになるならばと言葉を向ける。口に出してから、何故すぐに意識が走らなかったのかと不思議に思うほど、言葉はすんなりと胸に落ちた。同時に、はっとしたように、アスランが顔を上げる気配が伝わってくる。
「そう、なんだ。一応、キラにも伝えておこうと思って」
 緊張しているのかどこか固いままの声音には、キラは少しだけ微笑んだ。不器用なアスランの、懸命な誠実さは微笑ましい類のものだ。懐かしく、やさしい記憶ばかり思い起こさせる。
「指輪を渡そうと思ってるんだ。」
 約束にも、ならないのかもしれないけど。ささやくような言葉から、いくらか力をこめて真摯に告げられる。ほんの一時、瞳を閉じたのは過ぎる感情を振り切るためだったろうか。考えて、キラは戸惑う。けれど、何を?何も、不安に思う要素は全くない。どちらも大切なのだ。そうして、二人でならば乗り越えていけることは、きっと数えきれないほどにあるのだろう。
「…うん」
 キラは目を瞑ったまま頷いて、それからゆっくりと瞳を開けた。大事な姉を大切にしてくれて、嬉しいと、思える。同じ血をわけた存在でも、キラとは違う、カガリは正しく人として生まれてきた。心から、幸せになってほしいと願っているのだ。
「ありがとう、アスラン」
 伝えたいことは山のようにあるのだと思う。けれども結局、一番相応しいと思えた言葉だけを口にのせる。振り返る、アスランは一瞬、子供の頃のようにひどく無防備な表情を見せていた。それから、困ったような瞳で微笑みを向ける。染入るほどにあたたかな温もりを添えて。
 元よりそう長居のできる立場でもないのだろう、時間を押してまでも会いに来たのだと言った、話せてよかったと穏やかに微笑んでいた。彼を見送ってからもしばらく、キラはその方角を見つめていた。視界の端では、赤く目映いばかりの光が、海の際から鮮やかな色に染まってゆく。それらの色が瞬きのたびに滲んだように混じる理由を、知りたいとは思わなかった。




散文100のお題 / 29.指輪
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