空にはあえかな光をともした星が無数に瞬いていた。雲はない。夜の深い、眠りの静寂は誰にも邪魔されることはない。シンはそっと、遥かに広がる海へと瞳を向ける。繰り返される、打ち寄せる波の音はどこか物悲しく、遠ざかっていくばかりの日常の象徴のようにも思えた。その寂寥とあるはずの視界に見止めた姿には、刹那息をとめた。
 死の影に怯え、細い身体を震わせて、それでも懸命に逃れようとしていたのだ。きれぎれに落ちた言葉も、頬をつたう涙も痛ましいばかりで、必死に思い浮かんだ言葉を続けていた。儚いもの、か弱いもの。この手で守れるものならと、幾度も言葉を重ねて、抱き締めた。小さく、ようやく微笑んでくれた瞳の美しさも、今にも触れそうなまでに寄り添った温もりの気配も、忘れようもない。シンは今も、はっきりと覚えている。
 波の打ち寄せる砂浜から浅瀬へと、少女はゆっくりとした足取りで歩いていく。たなびく髪は月の光にもやわらかに輝いて揺れている。あのときと同じ、ふわふわとした白いスカートの裾は風に流れて、立ち尽くしていたシンからを遠ざかっていく。それはとても、幻のように、儚い姿に見えた。
 けれど、何処までを歩いていくのだろう。たどりつく場所など何もない、あの先に広がるのは、果てなく、何処までも続く海ばかりなのに。
 気が付いたときには、シンはもう走り出していた。さらさらと流れていく砂に、波に、足をとられながらもとまることはない。緩やかに、けれど力強く打ち寄せる波はシンの行く手をまるで幾重にも阻む。それでも、膝の遥か上にまで水面が近づいていた頃にはいっそうに緩慢になっていた少女の歩に、追い縋る、確かに近づいていた。

「…ステラ!」

 声を張り上げる、名前を呼ぶ。限界にまで伸ばした手のひらで腕を捉えて、引き寄せる。揺れる髪、ひどく間近に振り向かれて一瞬、またも息をとめる。瞬いて、まっすぐに自分へと向けられる瞳を見つめた。今は涙を湛えてはいない、やわらかな光を湛えた美しい色には意識せず微笑みを向けていた。もしも少女が泣いていたならと、ずっとそればかりを考えていたのだ。
 潮の匂いを強く、吹きつけてきた風には二人よろけて、とっさに背へと腕をまわした。抱き寄せて、それからそっと瞳を合わせる。腕の中へと抱き込んでしまえば、ひたすらにあたたかな思いが胸を埋めた。
 そうだ、何度でも繰り返す。俺が君をまもるよ。もうあんなふうに泣かせたりしない。きっと君を、まもるから。だからどうか、…笑って。


 ゆっくりと瞳を開かせる。指定された時刻にはまだ早い、戦艦の自室でひとり、シンは目覚めた。見知った天井を見上げ、それから視界を覆うように手のひらを持ち上げる。目蓋を引き下ろせば今も、たよりなく揺れていた少女の瞳が鮮明に見えた。別れ際の、あれからずっと忘れられずにいて、だからこんな夢などを見るのだろうか。夢の名残、腕の中に抱き締めた感覚までも残っている。会いに行くと叫んだ、けれど知っているのは名前だけで、少女が今何処にあるのかもわからないのに。
 シンはゆっくりと身体を起こした。まだ艦内はしんと静まり返っていたが、じきに廊下の遠くから声がきこえてくるのだろう。何も変わることはない、いつも通りに。今日も変わらずに笑えるだろう。自然に振舞える。けれどこれから先もきっと、ずっと、忘れることなどできるはずもないのだ。失ったと、もう二度と持つことはないのだと思っていた。かけがえのないと思えるものを、シンは見つけてしまったのだから。




モノカキさんに30のお題 / 16.涙
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