窓が開いている。ぼんやりと停滞した思考で捉う。さまよわせた視界に見慣れた色が映り込み、アスランはゆっくりとそれをたどった。机の上に無造作に置かれた工具、読み古されたいくつかの書籍、部屋の隅に裏返しに立掛けてあるコルクボード。カーテンはきちんと引かれたまま、吹き込む風に小さく揺れている。薄手の、暖色の布地が透けてあたたかい。
 窓を開けたのは自分ではない。思考の帰結へ染み入るように、通り抜けてゆく風は心地がいい。起き上がる。寝台の音を立てないように床に降り、居間に続く扉を開いた。
 元より一人暮らしの、リビングには誰の姿も見えなかった。けれども開け放された窓にはレースのカーテンだけが引かれている。ほとんど確信を持って背もたれの側から覗きこめば、ソファにはやはり彼がいた。すっかりと沈み込むようにして眠っている。キラ・ヤマトが。
 一瞬に暮らそうとは言えなかった。キラに言えるような言葉を、アスランは持たなかった。幼馴染みだった。友達だった。そういったやさしい思い出を語るには、けれどあまりに重すぎる時間があった。決して過去にできる程遠くはない。失われたもの、失わせたもの、誰かを殺して、誰かに殺されて、忘れることのできない痛みが今もはっきりとあるのに、望めば手の届く距離にあれることを、確かに望んでいる自分がいる。
 あまりに醜悪だと思う。触れたいと願うのも、あるいは受け入れてくれるのではないかなどと馬鹿なことを考えるのも、いつも、自分の感情はひどく利己的だった。傷つけたくはないのに。大切な、もう二度と、失うことのできない存在だと知っているのに。大事に、したいと思うのは、それだけは本当なのに。
 息をとめたのは無意識だった。やわらかな光の落ちる、キラの瞳は閉じられている。薄い目蓋の上、落ちかかる髪を脇へ流すようにそっと指を落とす。肌に触れたのは一瞬のことだったが、さざ波のような震えの伝わり、弾かれたように指を上げた。いくらかのタイムラグをおいて、視線の下、仰のくようにして、まばたいた紫の色がゆるやかに綻んでゆく。

「…キラ、」

 馴染んだ音を口にすれば、思い出したように呼吸が続いた。寝起きの故か、いくらかかすれた声にもやさしい微笑みをする。宙に浮いたままの指で、ごまかすように髪を撫でた。絡めて軽く引くようにすると、くすぐったそうに瞳を細める。
 あたたかな手の感触がふいに頬へ伸びた。意識を引き戻すように、あわされた瞳がまぶしい。どこかへ引き下ろされるような感覚のする、無理に落とした目蓋にも軽く指が触れて、ふいに胸の奥がつかえた。

「よく、眠れた?」
「…なんで、」

 キラは、変わったのだろうと、アスランは思う。どちらが年上だとか、そういったことで笑いあえていた頃は遥かに遠い。手のかかる弟みたいな感覚のあった、年よりも幼いような印象はもうどこにも残ってはいない。離れていた三年の間か、あるいはその後か、再び共にあれるようになったキラはとても静かな瞳をしていた。かつて、いくらかは近づけているのだろうと錯覚をしていた、ラクスとの距離にも似た。自分には見えない遥かを見つめ、決して手の届かない程、彼や彼女ならばその高みへ進んでいけるのだろうと思わせる。やさしい瞳だった。

「そうだったらいいなって、思って。」
「……風、が、」

 …ああ、気持ちよさそうかなって思ったんだけど、嫌だったかな。

 掴まれた掌の感触に、返そうとしていた言葉が宙へ浮く。起き上がろうとする仕草に腕を伸ばしたのは意識してのことではなかった。手を、差し伸べるということ。かつては自然な行動の一つに過ぎなかったが、余計なことだと躊躇うようになっていたのに、まだ必要とされていると思いたいのかと自嘲する。
 ぽすんと背もたれへ身体を預けるようにして、キラはそのままに当たり前のように手を引いた。そんなリアクションをまるで想定してはいなかったので、そこまでに強い力ではなかったが、踏みとどまろうとするアスランの反応は遅れた。動揺していたことも拍車をかける。倒れ込む形で、危うく頭がぶつかりそうになる。
 どうもまだ寝惚けているようだとうそぶく瞳は、けれど確かに笑っていた。

「目を覚ますには、珈琲だっけ、」
「…飲めるようになったんだ。」
「いくつになったと思ってるの、」

 お互いにな。疲れたように呟けば、キラはまた笑う。こどものような他愛のないやりとりに、これでいいのだとアスランは思う。これほどまでに、まるで何もなかったかのように、たとえ表面的なものであったとしても、また近付ける日が来ると考えたことはなかった。しかしこうなってしまえば、もう一度、離れることを考えるのはひどく恐ろしかった。そばに、こんなにも今はそばに、傍らにあるのに。
 笑っていてほしかった。痛みを堪えたようなものではなくて。いつかは。キラほど笑顔がふさわしい子供はいなかったのだ。思えばいつも、あの頃はそれがまぶしかった。何よりも、守らなければいけないものだと思っていた。
 淹れてあげるからと言って、慣れた足取りでキッチンへと向かう背中を見送った。ずるずると背もたれに後ろから、倒れ込んだままの姿勢で腕を投げ出して息を吐く。押し付けるように顔を伏せた、降り注ぐ太陽の熱よりも確かな、体温であたためられた布の感触に気付いて身体を起こす。まぶしいのだと思った。だから錯覚をしているだけだと信じたかった。
 かつては婚約者であったラクスのことを思うとき、あの美しい少女を思うとき、心臓の深くでわずかに、ちりちりとくすぶるような気配があることにも、それが不甲斐のない自身への後悔であったならと願っていた。けれどいくらか先にあるはずの日々を思えば、はっきりと胸は焼けてただれた。痛みの伴うように。
 喧騒が近くなるような錯覚。静かであることを好んでいるわけではなかった。大した音ではなくても、微かなものではあっても、人の営みに伴う気配があるということ。救われているのだと思った。キラの気配。微笑んで顔を向ける。やさしい笑顔に胸はあたたまる。
 ただそばに居られるだけで幸せだった。理解することができず、言葉のすれちがったま、一度はこの手で殺した相手だった。今でも雨の日には血の気が引いた。自分への罰なのだと思いながら、終わったことに救われた思いも確かにあった。
 背もたれに手をかけて立ち上がる。名前を呼ぶ声に目蓋は痙攣をする。キラの声。咽喉がひきつれてかすれる。けれども音は響いた。涙を流しなどはしない。名前を呼んだ。
 無造作に近寄ってきた影がテーブルの上へカップを置いた。立ち上る匂い。二つ並べられたカップ。当然のことのように平穏が肌をなでる。触れてくる掌は、確かにあたたかかった。




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