校舎裏には人目を避けるように薄い紅の花々を咲かせた一本の桜があった。辺りを見回せばやはり他には人影もなく、少女はその傍らにもたれて眠るキラへとひそやかに足を進めた。やわらかな風が吹き抜けて、時折ひらと花びらの落ちる中を、流された髪を抑えるようにして距離を詰める。

「―――…フレイ?」
「…起きてたの」

 けれど瞳を開かせる前に、ささやくような声で名前を呼ばれてフレイはつまらなそうに顔を上げた。寝顔を覗き込む仕草で、今にも触れそうだった唇には綺麗に色が引かれている。

「今年は、早いね」

 頭上はそろそろ若葉の芽吹く気配の見え始めた枝葉に覆われていて、空の鈍い光がそよいでは揺れる。キラのまなざしが優しげに細められるので、フレイも緩く視線を上げる。まだいくらかを残る、意識して瞳を向けたことのなかった花の色を見つめた。
 フレイは目立つ存在だった。華やかな笑顔に愛らしい声をして、好意を向けられることはあっても、自分から誰かへと進んで興味を持つことはなかった。フレイがキラと初めて言葉を交わしたのは一月ほどの前。直に新学期の始まる、まだ春休みのさなかだった。
 仕事の忙しく、久しぶりに帰宅する予定だった父の都合がつかなくなったと夕刻に連絡が入り、フレイは無意識のうちに無人であるはずの学校へと足を向けていた。人のいない方へ、ひとりになれるところへと、校舎の隅、普段なら気づかないような細い通路を抜けて、小さな中庭のような場所に出る。周囲に咲いた花にも目もくれず、力の抜けたように芝生の上にとしゃがみ込んだ。ひとりであることが不意に強く身に迫ってくるような感覚があって、フレイは固く唇を引き結ぶ。そうして、意図したものではない涙がこぼれるのを押さえようとして、目元を擦らせたときだった。無造作に聞こえた音に弾かれるように顔を上げれば、驚いたように開かれた瞳とあった。

『ど、どうしたの?』

 木の上からを飛び降りたらしい少年の服の上には幾つもの花びらが付いていた。色素の薄い髪にはすっかりと絡んではねている。

『何でもないわよ…!』

 先客がいることをまるで想定してはいなかったので、ばつの悪さに口をついた声はとがる。すぐに顔を伏せていたので表情まではわからなかったが、戸惑う気配は伝わってくる。

『大体、なんでこんな時間にこんなところにいるのよ!』

 俯いたままに続けて、理不尽な言葉をぶつけていることには自覚があったので、いっそうに落ち込んでいくような心地のしていた。

『…あ、え、もうそんな時間…?』

 しかし想定してはいなかった慌てたような声で返されて、反射で顔を上げる。想像通りの困ったような表情をして、けれど瞳があえば彼は笑ったようだった。瞬いたフレイの目の前に、それから投げ出していた鞄を拾い上げ、渡してくれる。

『…ちょっと待ってて』

 受け取れば今度ははっきりと微笑んで、言葉の意図をフレイが探し当てる前に駆け出して行ってしまう。ほんの数分で、戻ってきた彼が手にしていたのは濡らされたハンカチだった。

『擦ると、腫れちゃうから』

 差し出された手のひらにゆっくりと視線を向ける。意地を張るのも今更のように思え、いくらか遅れて触れた手にも彼は少しだけ笑った。そうしてそのままに立ち去ろうとするのを、腕を掴んで引き止めたのはフレイだった。

『……泣いてる女の子を置いていく気?』

 ほとんど言いがかりに近い言葉に、キラは数度まばたいた。それから幼く微笑みをこぼして、フレイの隣に腰を下ろした。そのときはまだ、名前も知らなかったのだ。
 特に取り決めたことではなかったが、キラに告白をして謝られてからも、フレイはよくこの場所に足を運んでいた。一番に仲の良いらしいアスランに何がしかの用事があるときは、大概にキラはひとりでここにいて、それはアスランも知らないことのようだった。キラはよく笑ったが、フレイといるとき、時折とても静かに笑うようになっていた。

「本当にいつも、アスランと一緒にいるのね」
「…そうかな」
「でも、私のほうが絶対かわいいと思うわ」
「え?」
「なによ。違うとでもいうつもり?」
「ええと、何が…?」
「どっちがかわいいかよ!」

 ほとんど睨む仕草で見据えていると、開かれていたキラの瞳が不意に笑みに緩んだ。日が暮れ始めた空に薄く紅を刷いたような、綺麗な色だった。

「…フレイはかわいいよ」

 きっと何処にも嘘のないやさしい言葉で、それでも距離を隔てられたように感じるのは何故だろう。キラはゆっくりと瞬きをして、それから空を仰いだ。何度見上げても空は空だけれど、きっとキラの瞳に映る空はフレイの瞳に見える空とは違うのだ。あるいは彼ならば、共有できるのだろうかと考えるのは悔しかった。フレイは、恋をしているのだから。
 強く見上げた枝葉の僅かな間隙からは、目に刺さるほどに青い空が見えていた。




B A C K