風に当たってくるとことわって外に出た。そよぐ流れが前髪をなびかせるのには手をかざし、目を細めて見やる。明度の薄い光が触れる、夕暮れだというのに、すでに馴染んだ制服は薄くあっても寒さを感じさせない。あたたかい国だと、それはキラの故郷でも、王都でも変わらずに実感できた。気候はやわらかく、人はやさしい。静かに瞳を細めたキラの背へ、ふいに額をなでていった風にまぎれて呼びかけられる。
「キラ、」
 彼のそれよりもいくらか低い音、けれども冷たくはない、いつでも距離を感じさせない声だ。振り返る間に軽い足取りで距離を詰めて、無造作に腕が伸ばされる。
「喧嘩でもした?」
「え、…わ」
 いつの間にか髪にかかっていたらしい葉を、ぱさぱさと振り払う仕草には反射で瞼をかがめた。かき乱すだけかき乱して、笑んだ声は当然のように続けられる。
「アスランが一緒じゃない」
 瞬きをひとつ。そういえば、最近は別行動が多かっただろうか。いくらか高いラスティの表情を見やって、キラは瞳を投げる。
「アスランに用なら、部屋にいると思うけど」
 同室になれば、物事の説明をするのがルームメイトなのは慣習だった。取っている科目の関係だとか、日々を過ぎてからも、元より面倒見がいいのだろうアスランとキラが過ごす時間は多かったが、だからといっていつでもセットで動いているわけでもない。
「いや、そういうんじゃなくてさ」
 逡巡するように瞳をさまよわせて、目線を返したキラへは曖昧な笑顔を向けられる。
「…キラは、全然感じてない?」
「何を?」
 要領を得ない言葉には首を傾げると、うんうんと唸った末に軽く腕を引かれた。距離と、潜められた声もまるで内緒話のトーンだ。
「一応な、所詮はアカデミー内の噂だから、そんなに気にすることもないだろうけど、」
「アスランのこと?」
「…うーん」
 適当な相槌を返しながらも、何か思い当たる節があったかと巡らせかけた思考は、なんだかわざとらしい咳払いで遮られてしまった。
「ひとつは、キラが、継承候補なんじゃないかって噂と」
 視線を開かせる。まじまじと見上げると、どこか楽しそうな瞳で続けられた。
「もうひとつ。そうじゃないなら、アスランはキラに惚れてるんじゃないか、って」

 顔を上げる。何気なく引き開けた窓からはひやりとした空気が触れて、アスランは形だけ捲っていたページから手を離した。時計を見やれば、それなりに時間も経過している。
「…少し、ね」
 机を引き開けて、それまでに集中していた図案を走り書きに書き留める。けれどもキラの行きそうな場所のいくつかを思い浮かべかけたところで、わかりやすく近づいてくる足音が耳に届いた。
「アスラン!」
 勢いよく扉を引き開けて、向き直って閉める。出て行ったときよりもやけに跳ねている髪に気を取られていると、慌てた表情でキラが振り向いた。
「おかえり、キラ」
「あ、うん、ただいま、…じゃなくて」
 ぐるりと視線をめぐらせ、隣まで歩いてきてまだ半開きの窓もしっかりと閉めてしまう。部屋は鍵をかけられない造りになっているから、それで出来得る限りの閉め切り状態だ。とはいえ壁もそう薄くはないので、そうしてしまえば簡単に話し声が外まで響くこともない。
「外、そんなに風強かったの?」
 窓に手をかけて俯いたままの、四方に入り乱れている髪に触れる。ひとつひとつ指で整えて梳きかければ、抑えて掠れたように声が落ちた。
「…どうしよう、アスラン」
「なに?」
「ラスティが、」
「ああ、もしかしてこれ、ラスティが?」
「これ?」
 言いさしたところへ続けられて、ゆるくキラの視線も上がる。細くすくって指にかけた感触はアスランのそれよりも軽い印象がある。くすぐったいのかキラが少し首を引けば、絡みもせずに指先を掠めて落ちていく。
「そう、落ち葉が付いてたみたい」
「それだけで、こんなになるか…?」
 顔かたちのそれよりも、些細なことに幼い印象があるのは思い出にフィルターがかった思考のせいなのだろう。いくらか低い目線が上げられて、真摯な表情は確かにアスランの望む気配を宿して見えるのだから。
「そうじゃなくて、それよりも、噂話のことで」
「キラのこと?」
「僕もだけど、でもアスランのほうが多分、」
 言い淀む語気には戸惑いの色ばかりだった。見つめているとにわかに沈みこんで、見る間に翳る。
「ほんと、ごめん、僕のせいだ…」
 意図を持って頭を下げられればこちらまでつられて表情がくもった。元々の性格的なものだとしても、理由もわからずにキラから頭を下げられるのは落ち着かない。理由があったところで、別段必要もないのだけれど。
「…ラスティが、なんて?」

 教官が流暢な文字で書き連ねた文字を指し示す。改めて説明されるような事柄でなくとも、明確な言葉として刻み込まれればあるいは意味もあるのだろうか。単調な声を聞き流しながら、瞳だけを向ける。白にくっきりと鮮やかなインクの色も、光の具合によっては色を弾かせて見えにくい。上部に据え付けられた窓からの光に視界を邪魔されている。普段ならば気にも留めないことにまでいつになく意識がとがり、アスランは顔をしかめた。
 意識がはずれていれば、大した意味も持たない音の羅列など雑音にすら成り得なかった。キラはこの時間を選択してはいない。斜めに離れた席に陣取っている、ディアッカは笑んだ口振りで、一人は寂しいだろとすれ違いざまに言って寄越した。小さな子供に対するような言い様は不愉快だったが、一瞬アスランは答えにつまった。
 寂しいと感じたことは一度もない。けれども今では、傍にある時間と、離れている時間の持つ意味合いはひどく違っていた。誰かから得られるものが在る。そう感じたのも、キラが初めてのことだった。
 切り替えた思考を投げる。それが自分だけにかかるものなら、興味本位な言葉も拾い上げて意識に留めなどはしない。気にもかからない、くだらないことだと笑い飛ばせる。元より隠す必要もないのだ。大切に思うのも、ただひとりと定めたことも真実で、キラの心にかからなければそれで過ぎた。苛立っているのは、ただキラへ向けられる視線にだ。
 アスランがキラを選んだと告げてからも、キラの態度に変わりは見られなかった。余程理解されなかったのだろうかとも思ったが、そういうわけでもないのだろう。一番には、困惑していて。すぐに、おそらくは、キラにとって喜ばしい言葉ではなかったのだろうことも察せられた。
 キラの生まれはほとんど知られてはいないし、公にすれば当然に立場にも変化は伴う。アカデミー生は公平に護られている。けれどもいっそうの安全を思うなら、アスランからすればそれらの変化は望ましい。言葉を選び、傅くことも。それをしないのは、それらがキラの望みに沿わないからに過ぎない。
 誰かに理解されたいとは思わない。むしろ分かられてたまるかとさえ思う。キラには、資格がある。そうして、玉階に選ばれれば候補者に拒否権はない。アスランが推挙すれば、キラの意思に関係はなく、キラは継承候補者の一人として円卓に従わねばならないのだ。
 どんな言葉で飾ろうと欲しいものはひとつだった。ラスティに言わせれば自業自得で、確かにそれまでの、キラ以外に対する態度と比べれば差異は隠しようもない。

 ノートはほとんど白紙のままだった。鐘の音に、定められた時間の経過を告げられて席を立つ。真っ直ぐに部屋へと戻る気でいたアスランの足を止めたのは、偶然に廊下の先に見かけたキラの姿だった。アスランには気づかずに、同じ科目選択の数人と別れて歩き出す。その、視線の逸らされた一瞬だ。
 伏せられた眼差しは見えない。けれども静かな表情に、足が地へ縫い付けられる。手首につよく力をこめて、瞼を引き絞る。許されるまで、今はまだ気づかないふりをする。

 そういえば、両親から何かを隠されたことは一度もなかった。休憩時間を抜けて、学舎にほとんど飾りに据え付けられた高見台への豪奢な扉を押し開ける。中へ入り込み、キラはずるずると壁に寄りかかって座り込んだ。ぐるぐると階段を上りきればさぞかし空が近いだろう。高いところから見る景色も嫌いではないけれど、一人になるには一面ぐるりと壁に囲まれた閉鎖空間も都合がよかった。
 壁に背中を預けたまま、後頭部を押し当てて瞳を閉じる。誰もに秘密にしておかねばならないと思っていたことを、当たり前のように受け入れてくれる友人がいることは素直に嬉しかった。救われているのだと思う。それがアスランなら尚更だ。
 溜息に下ろした視線で、適当に投げ出した本のページが開かれているのが見えた。白い色へ、遥か頭上の窓から光は落ちている。目を凝らせば見える程度の小さな埃が、そこだけ光を受けてキラキラと舞っている。身近にも、かざした手に掴むことができないものは沢山あった。もう一度息を吐き出して、瞳を細める。
 アカデミーに上がろうと思った理由のひとつに、アスランのことはあった。大切な思い出だった、もう一度会って話をしてみたかった。けれども、もうひとつ。
 幼いアスランが言った言葉を、今でも覚えている。果たすべき責任がある。それはキラも同じだったから。
 望んでその血筋に生まれたのではなくても、親の残したものは子供に残る。病弱だった母と、ほとんど母の傍を離れることのなかった父の二人が、何かを間違えたことなどなくても。残された立場、責任は果たさなければならないものだといつでも思っていた。
 正式に立場を表明して、それで期待外れであれればよかった。後ろ盾のないキラを選ぶ誰かなどなければ、円卓に起つこともない。元より誰かの上に立てるような立派な人間でもない、それを選ぼうなんて正気の沙汰じゃないと、そのはずだったのに。
 細く落ちた、愚痴めいた呟きまでひどくやさしく響いてしまう。断ることはできないと知っている。それでもキラが真実望めば、アスランはきっとそれを受け入れてくれるのだろうと確信がある。
 嬉しいなんて、欠片も感じなければよかった。息をこぼして瞼を引き下ろす。心は引き寄せられる。少しずつでも、逆らいようのない強さで、張り巡らせていたはずの深くにまで踏み込まれてしまう。目に残る、光を受けて輪郭だけをくっきりと浮かび上がらせた、暗闇からかざした手はやはりそう大きくはない。どこにでもあるような、自分には馴染んだ手のひら。この手にどれだけのものが守れるとアスランは思ったのだろう。考えて、思い描く。
 小さな窓の形に切り取られた遥か遠くに見える空は、いつかの色にひどく似ていた。


 額に触れる指が髪を梳いていく。薄く瞳を開ければ夜の森のような瞳が見えて、夢の中でも鮮やかなのだとおもう。
 まばたけば、暮れなずむ寂しげな青はやわらかな光に縁取られている。感じられた距離よりも、伸ばした腕は簡単にその頬へと触れて、キラは目を細めた。幻のはずなのに、体温を落とした指先にはやさしいぬくもりを伴う。まるで本当のことのように。
「…アスラン」
 ぼんやり微笑めば、けれども不思議そうにまなざしを向けられた。音に響かせた声も、無邪気にはねるそれではなくて、どこか掠れてささやきに近い。
「起きた?」
 苦笑の気配で指を離される。とっさに滑らせた手のひらで指を捉えて、ようやく気づいた。夢とは違う、キラよりも低い体温で、硬くあるのは繰り返し剣に擦れた肌だ。一瞬だけ瞠目した後で、ゆるゆると瞳を向ける。
「夢、みてた…」
 一面が夜空だった。どこまでも開けた、流れる新緑のくさはらで、キラは空を見上げる。今にも降り落ちそうなほど、散りばめられた星はきらきらと二人の瞳に光を落とす。手をつないだまま、いつもよりも近い距離で、吐息のようにアスランの声が届く。
(―― 一緒に、)
 風が吹き抜ける、そよぐ草の触れ合うざわめきの中を、ふわふわと髪を揺らしながら歩く。今よりも幼い声で、キラの手を引いていく、差し伸べられた手のひらはやわらかかった。近く微笑まれれば、自然笑みはこぼれた。
 とても、夢の中でならば、簡単にその手をとれた。何を衒うこともない、ただ好意だけで隣にいられたのに。
「いい夢だった?」
 息をこぼす仕草で、向けられる瞳はあたたかい。胸が詰まったが、問いかけには無理にも微笑んだ。
「…すごくね。きれいだったよ」
 少し笑ったような気配で、アスランが立ち上がる。明かりの差し込む窓からは琥珀色がかった月が見えた。




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