深い深い水底。穏やかで、彼女を脅かすどんなものもない、静かで優しい場所へ身体は緩やかに沈んでいく。漠然としたイメージの連なり、外へは一度も出たことのない彼女が繰り返し見る夢。そこは冷たい暗闇ではない。かすかではあっても、あたたかく届くものがある。降り落ちる言葉も。聞き覚えもない、見知らぬ誰かの声に違いないのに、何故かひどく懐かしいと感じた。繰り返し呼ばれる名前も、向けられるやさしい心の伝わるようだった。
 ゆっくりと瞳を押し開く。いまだ脳裏に残る深い青、夢の中で身体を包み込む、光を透かした水の色を彼女はひどく好きだった。けれど現実に視界を塗り込めるのは白、ただそれ一色だ。窓のない、余分な何ひとつ置かれてはいない部屋。扉の外には同じような外観の廊下が続いていることも彼女は知っている。ただ、扉には外から鍵がかけられており、扉自体も鉄で出来ていて到底蹴破れるような代物ではない。時折外から訪れる幾人かの人々、一様に白衣を着ていたり、ごく稀にスーツ姿の場合もある、彼らの訪問だけが彼女の世界を外へと繋ぐ唯一のものだ。瞬きをひとつ、一度息を吸って、それから身体を起こす。彼女のあまり好まない、薬品の匂いはいまだ部屋に立ち込めてはいなかったから、今朝の気分はよかった。目が覚めて腕や身体に何がしかの管が繋がっていたり、呼吸器が付けられていたりといったことも、ないことではないのだ。彼女の為なのだと言う、やさしい声音で告げられるそれらの言葉を、けれど彼女が信じたことはない。本当にやさしい声がどんなふうに響くか、どれだけあたたかなものか、彼女は知っているのだから。
 簡易な服の裾を翻し、素足のまま足音を立てずに彼女は歩いた。意味の無い日課のようなもので、鍵がかけられているはずのパネルに掌を押し当てて、扉の開かないことを確かめる。けれどもいつもは響かない、かすかな機械音が彼女の掌に反応するようにふたつ続いた。緑のまま、常に変わることのないはずの小さな光が赤に瞬く。かすかな空気音を伴い、頑なに彼女を閉じ込めていたはずの扉があっさりとスライドする。警戒をするように周囲を見回しても、視線の届く限りには誰もいない。目前には開かれた扉がある。
 誰かに付き添われて別の部屋に連れられたことはあっても、それまでにひとりで部屋を出たことはなかった。それでも迷うほどの広さではない。真直ぐに伸びた廊下の、突き当たりにはエレベータがあって、その横に普段は使われていない階段があるのだ。一度、システム的なトラブルだかが起きたことがあって、けれども何処だかに提出するデータを取らなければならないのだと、利用したことがあった。彼女の部屋に、必要時には壁からパネルの開くコンピュータ自体が作動せず、何処に連れられるのかも分からなくても、あのときは厳重に拘束された彼女に抗うすべはなかった。
 小さく息を吐き出して、足を踏み出す。室内のそれと大差ない、冷たい床に足先が触れても、何もない。起こらない。警戒を促すようなサイレンも、誰何する声も、響きはしなかった。そこまでを認識して、彼女は音も立てずに走り出す。隠れるような場所はないから、見つかってしまえばそれで終わりだと、大した知識などなくてもそれだけはわかっていた。おとなしくしていれば、怖いことは何もないと彼らは言った。それならば、これで見つかってしまったら、きっととても怖いことがあるのだ。漠然と思いながらも、彼女が足を止めることはなかった。このままここにいても、ずっと同じだ。何も変わらない。夢を見て、起きればただ白い部屋がある。それだけだ。けれど。
 階段へと続く扉に手をかけたところで、機械の唸るような音が聞こえた。すぐ横にあるエレベータの、止まっていたパネルの数字が動いていく。はっきりとその意味を理解はしないまま、彼女は重い扉を押し開けた。鍵はなく、蝶番の軋む音がわずかに続く。どうにか通り抜けられる程度の幅で、身体を滑り込ませる。いくらか高めの、エレベータの到着を告げる軽快な音と、いくつかの足音がすぐに聞こえた。
 エクステンデット、実験、貴重なデータ、聞き慣れた、意味のわからない単語を含んだ会話は、階段を駆け下りていく彼女には、扉の向こうを遥かに遠ざかっていく。あまり清掃も行き届いてはいないのだろう、灰色に汚れた壁も、けれどあの部屋の白さに比べれば余程好ましいと感じられた。息は上がらない。運動能力が高いのだと幾度も言われた、狭い室内で機械を使ったそれでは大した実感もなかった事柄が、すんなりと胸に落ちていく。足も、腕も、身体も、こんなに自由に動く。途中開け放たれていた扉には足を止め、覗き込めばやはり誰の姿も見えない。けれどもその階の廊下には、いくつかの窓が並んであった。彼女は一番手近なそれに駆け寄り、鍵をはずす、引き開ける。窓の外にはすぐ別の建物の壁があって、けれど彼女一人の身体が通り抜けられないほどではない。窓枠に足をかけた彼女は周囲に瞳を巡らせた。上も下も、まだどちらも同じくらいに距離がある。下に足を滑らせれば、それこそそれだけでも死んでしまうかもしれない。そこまでを考えた脳裏に、唐突に、どこか遠くから居丈高な声が響いてくる。怒声、それも、何処か悲鳴じみている。自分に向けられたわけではないそれらが、いっそうに彼女の行為を後押しした。そうだ、足は止めない。壁沿いに手を伸ばす。ぎりぎりに指の届いた細い配管に縋って、一箇所に体重のかからないよう、しなやかなまでの動きで飛び移る、滑り降りていく。吹き付ける風も、空から続いて、見る間に髪や服を濡らしていくものの名前も、彼女は知らなかった。ただ、いくらか熱を持った肌にはそれすらも心地いい。吐き出す息も苦しげなそれではない、何かのメロディーを口ずさんでしまいたくなるほどに、意識は高揚していく。

 その日、戦後のいまだ続く混乱の中、ナチュラルの行っていた研究データの解析を行っていた建物から、一人のサンプルが逃亡したことは、すぐに上層部の知ることとなった。けれどもその研究自体がプラントでも極秘裏のものであった為、それらが公に報道されることはなかった。



 傘も差さずに歩いていた。身に纏っているものも今は軍服ではない、ただの私服だったから、理由もなく濡れて帰ったところで誰に小言を言われるわけでもない。かつては当然の、けれど今ではいまだ馴染まないそれらの事柄に目を背けるように、シンは軽く頭を横に振った。こんなことじゃ駄目だ。それだけはわかっているのに、戦争に奪われた時間は、短い間にもシンの中の多くを変えてしまった。
 軍人としての功績も、罪と判断されたものも、それぞれにあった。けれど誰もの根底にあったものは、大切なものを守りたいという、ただそれだけだった。そのはずだと、シンは今でも信じている。幾度も優しい言葉をかけてくれた、議長の言葉も。いつもシンのことを気にかけてくれていた、理解して、認めてくれていた、共に戦った、レイのことも。
 終わりの見えないように思われた混戦の中でも、またも停戦へと世界が落ち着いたことは、今はそのままに受け入れている。ナチュラルの全てが悪いわけではない。プラントや仲間と共にあるザフトを居場所と定めたときも、かつての故郷であるオーブへ銃を向けたときも、そんなことはわかっていた。プラントに渡るまでは、生まれてからをずっと、シンはオーブで暮らしていたのだ。ナチュラルとコーディネイターの区別なんてなく。戦争なんてしたくなかった。誰も、誰かを殺したくなんてなかったはずだと。平和な世界で誰もが幸せにあれるなら、それが叶うことなら、それ以上に望むことなんてシンにはない。
 一番苦しかったときに、心が悲鳴を上げていたときに、隣に寄り添っていてくれたルナマリアも、共にミネルバにあったクルーは皆、今は長期休暇の扱いとされていた。罪はそれぞれにあり、誰もがそれを償うべきだと。ある意味ではかのラクス・クラインの言葉通りに、自主的な謹慎にあれと、そういうことなのだと解釈している。一度はこの手にかけたと思っていた、アスランとメイリンが生きている、そのことも、思うところはあっても、今は素直に嬉しいと思える。そのメイリンの傍に、ルナマリアはある。彼女を、守ることができた。その事実だけでもシンの心を救ってくれたし、それだけでも幸せだと思えた。緊張状態に、寄り掛かるようにして始まった関係ではあったから、それに謹慎としても、今は距離を置いている。これから先のこともまだわからない状況で、それらがどう変わっていくのかはわからない。いろいろなことを落ち着いて考えることができるようになって、離れることになっても、それならそれで構わない。シンとは違う、ルナにはまだ家族がいるのだ、彼女は一人になるわけではないのだからと。そう、シンは思っていた。
 濡れた髪が額に張り付いて、目の上にまで降りかかるのにも構わずに、シンは空を見上げた。重く、灰色の雲が立ち込めて、人工の雨は容赦なく降り続く。はっきりと予報されていて、そうとわかっていながら傘を持ち出しはしなかったのだから、見回したところでそうして濡れそぼっているのはシンくらいのものだ。あえて怪訝な眼差しを向けられることはなくても、同様に思われているだろうことは容易に想像ができて、いっそ笑えてしまう。けれど時刻はとうに夜で、あまりに過ぎればそれも相当に不審だろうから、そろそろ意味のない外出に終わりを告げて、帰ろうかと思っていた。その矢先だった。
「…う、わ…っ」
 横の路地からを駆け出した人影が、勢いをそのままに飛び出してきた。意識は身体を避けようと反応して、けれどもふらついたように見えた姿にはとっさに腕を伸ばしていた。結局腕の中にぶつかられる形になって、勢いを殺しきれずに転倒する。水溜りに直撃、とまではいかなくても、傘を差さなかったことの比にならないほど、地面に触れたところから不快な感触で水が一気に服に沁み込んでくる。かばう仕草になっていたから、相手にはそれほど被害は及ばなかったのだろうか、聞こえた悲鳴のような吐息はごく抑えられたものだった。
(何、やってんだろ…)
 一番初めに思い浮かんだのはそんな言葉で、シンはぼんやりと空を振り仰いだ。それからゆるゆると瞳を下ろす。呆然とでもしているのか、腕の中の誰かは俯いたままにいる。その小柄な身体からも、触れる掌のやわらかな感触からも、少女であることはすぐに知れた。ただ、その相手の表情をさらに遮っているのが、びしょ濡れではあってもいくらかウェーブがかった綺麗な金髪であったから、改めてそれを見つめて、シンは瞳を伏せた。それこそ、今にも何かを重ねてしまいそうな気がしていた。とっさに手を差し伸べていたのも、反射的にでも、その色ははっきりと見とめていたのだ。身体に受けた衝撃よりも、そのことに胸が締め付けられて、声は沈んだ。
「大丈夫?…立てる?」
 それでも、無意識にでも、気遣うように声は優しくなる。相手も傘を差してはいなかったことも、何より地面に投げ出された両足が泥に汚れて素足だったことも、シンから責める言葉を無くしてしまった。その声のせいだろうか、少女の肩が小さく揺れて、ただ胸のあたりに触れていただけだった掌に、シンの服を握り込むように力を込められる。
「何…」
「だれ…?」
 よく見れば爪が折れて血の滲んでいる指先もあって、力の込められたそれはひどく痛々しかった。指を添えてそれを解こうとしていた、けれどかすかに耳に届いた声に、シンは動きを止めた。か細く震えて、けれど澄んだ、やさしい声が。
「…シン……?」
 続けて、名乗っていないはずの名前を細く呼びかける。見開かせた視界に、ゆるゆると間近に上げられた瞳は、綺麗なすみれ色を揺らしながらシンを見つめてくる。頬に落ちる濡れた髪が、ゆるく揺れて、それもいつかの、かつての面影を重ねた。初めて出会ったとき、死の不安に怯えて、泣いていた。シンが守ると誓った、家族を失ってから、初めて守りたいと思った、大切に思えた少女。
「――…ステラ…?」
 惨めに震えた声の先で、少女がそっと、本当に嬉しそうに微笑むのが見えて、シンの視界は見る間に滲んだ。一度瞳からこぼれ落ちてしまえば、次から次へと涙は溢れてとめることもできない。それを拭う間、瞬きの間にも目の前の少女が消えてしまうのはないかと思った。その頬に、そっと、ステラの掌が触れてくる。
「シン…」
 涙を拭うように細い指先がたどって、もう一度、繰り返し名前を呼ぶ声が、胸の奥へと静かに降り落ちる。泣かないで。仕草からも言葉が伝わってくるようで、縋るように腕を伸ばした。いつか、混乱して泣きじゃくっていたステラを宥めたときと同じように、背中に手をまわせば、抵抗もない、ステラはシンの肩に頬を寄せるようにする。首に腕をまわされて、確かな温もりと感触が、不安に揺れるシンの心に現実なのだと響かせる。
「……ステラ…っ」
 もう顔を上げていられずに、自分よりも余程濡れている金髪に顔をうずめてシンは泣いた。その間もずっと、シンの身体にまわされたステラの腕が、離されることはなかった。


「ステラ、大丈夫?寒くない…?」
「…うん」
 しばらくして、シンからまわされていた腕が唐突に引き離された。不思議にシンを見上げたステラに、シンは焦ったような声で訊ねてくる。ステラが小さく頷いて言葉を返しても、くしゃりと歪んだシンの表情は変わらない。
「こんなに濡れてるのに、いつまでもこんなとこで、ほんと、ごめん…!」
 せっかく涙がとまったのに、また今にも泣き出しそうな瞳で立ち上がる。ステラへと腕を差し伸べようとして、けれどすぐに思い出したように屈み込んだ。
「足は?痛くない?裸足でなんて、なんでこんな無茶…」
 だいじょうぶ、と首を振り掛けたステラよりも先に、塗れた髪をぐしゃぐしゃとかきあげて。抱き上げようと伸ばされた腕が、ふいにとまる。何かに怯えるようにその瞳がぐらりと揺れて、ステラの頬へとその腕が上がる。
「……ステラ、…ステラ、俺…」
 震える指先に頬を寄せて、ステラが手を重ねればいっそうに泣き出しそうに見えて、ステラにはどうすればシンが笑ってくれるのかわからなかった。笑っていてほしいのに、とかなしく思う。ずっと、ステラはどこかでシンの声を探していた。きっと、外に出れば、会えるのかもしれないと予感がしていた。だからあの場所から抜け出したかった。あの部屋から外に出たかった。あのままずっとあそこにいるくらいなら、一度シンの声を聞けたなら、それで死んでしまっても構わないと思っていた。けれど、もっと、と願う心にはまるで終わりがない。
 今、目の前にシンがいる。それだけでも、こんなにも心は充たされるのに。声を聞きたい。何度でも、名前を呼んでほしい。手を伸ばして、抱き締めて、伝わるシンの体温もいっそうにステラの胸をあたためる、しあわせにしてくれる。だから尚更、シンにもしあわせに、笑っていてほしいのに。
「シン…すき……」
 心に思い浮かんだままに唇にのせて微笑めば、シンの表情はさらに歪んだ。すっかりと瞳には涙が滲んでしまっている。
「うん、うん…!ステラ、俺も、」
 言葉を遮るように立ち上がる。足の裏にぴりりと引き攣れた痛みが走ったが、それも気にとめるほどのことではない。またも頬をつたったシンの涙へ、ステラはシンの腕を引くようにして、唇を寄せた。涙を拭って、軽く触れただけの顔を離す。
 シンは驚いたように瞬いて、ステラを見つめた。開かせた瞳に、ふいにステラが触れたほうの頬へ片手をあてて、それから目尻が赤く染まっていくのが見えた。
「シン…?」
 不思議に問いかけても、何かを言いかけてか開かれた口も、小さく震えるばかりですぐには言葉を返されることもなく。顔を背けるようにして、それから今度は背中を向けて屈みこまれた。
「……背中、のって。それなら、足も痛くないだろうし……」
 ぼそぼそと続けて、それでもまだ顔を向けてはくれない。背中に、のる。向けられた言葉を考えながらステラが見つめていると、ようやく振り向いて、次には困ったような苦笑を浮かべられる。
「…ええと、わかる……?」
 笑ってくれたことが嬉しくて、ステラもシンの上に屈みこんだ。上から首に手をまわして、抱きつくような形になる。
「そう、そのまま…」
 向けられる言葉、シンの声にも、胸はあたたまる。ステラの心はやさしいときめきに包まれる。そっと瞳をゆるめて、もう一度、ステラはシンの頬に唇で触れた。伝わるやわらかな感触も、ひたすらにステラにやさしく、あたたかい。そうして、シンの背中へと顔を伏せたステラが、真っ赤に染まったシンの表情に気付くことはない。
 それからいくらかして、首に腕をまわしたままでいるようにと告げられて、ステラはおとなしくそれに従った。けれどもステラを背負って歩き出してからも、頬を赤く染めたまま、シンはそれ以上ほとんど口を開くことができなかった。



 守ること、いつからかそれだけが生きる理由のようになっていた。その為になら、生きたいと思うことができた。戦うことができた。けれど、戦争が終わって、ザフトも必要ではなくなるのかもしれないと告げられてから、シンは心のどこかで自分に意味を見出せずにいたのだ。自分の為だけの生き方なんて忘れてしまった。家族もいない。シンだけを必要としてくれる誰かはいない。一人きりだと。
 けれども、今、背中からこぼされる吐息が、シンの首の後ろに触れる。肩に頬をあずけて、時折呼びかけられる名前に声を返せば、嬉しそうに微笑まれるのが伝わった。見えなくても、以前に幾度か見た、吐息をこぼす仕草に儚く微笑まれる表情は、今でも胸に焼き付いている。ずっと、忘れたことなんてなかった。一度も。――瞳を閉じれば、いつでも。
 爪の折れた指先、裸足のままで傷ついた素足。ステラが死んだことは、デストロイに乗っていたあのときにフリーダムの攻撃で命を落としたことは、誰よりもシンが知っている。どういった技術だか、どんな企みの元にかは知らない。けれども、それでもこれはステラじゃないと、シンだけはわかる。あのステラとは違う。そうと思いながらも、ほとんど差異の見えない姿にも、声や仕草にも、違いを見出すことはできなかった。傷だらけになりながらも、何処かから抜け出してきて、シンを見つけてくれた。シンを見とめて、シンの名前を呼んで、嬉しそうに微笑んでくれた。それは、本当に奇跡のように思えた。
 これはステラだ。シンを必要としてくれる、シンが守ると誓った、あのステラと何も違わない。もう戦争も終わった。今度こそ、あたたかくてやさしい世界で、ステラは笑っていられるかもしれない。一緒にいられるかもしれない。シンにはもう何もない。守るためになら、全部捨てられる。もう二度と、ステラに怖い思いも、痛い思いもさせたりしない。もしもステラが誰かに追われているのだったら、それからも。…どんなものからも、俺が守るよ。今度こそ、君を。
 言葉にはできずに、何度でも胸のうちで繰り返す。またも名前が呼ばれて、ひそやかにすきと続けられた。無邪気な言葉には、胸が苦しくなるほどだった。
「……俺も、ステラがすきだよ」
 ささやいて、そっと瞳を伏せる。また一筋、涙がシンの頬を伝っては落ちた。




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