懐かしい歌声が聞こえていた。何処かで聞いたことがあるとラクスは思って、夢の中で瞳を開く。緩やかな日差しの下、あふれる緑に包まれるようにしてある庭で、幼いラクスはまどろんでいた。やさしいこえ、やさしいてのひら。途方もない安堵感、どんな不安も哀しみもない、安らぎの中で。それが遥かな以前に聞いた、母の声であると思い当たって視線を上げようとする。そこで目が覚めた。夢からうつつにもまだ其処ここに気配が満ちているようで、ぼんやりとした視界には、今にも母の姿が見えるような錯覚があった。ゆっくりと、夢の名残を振り払うように身体を起こす。備え付けられた端末は、予定をされた時刻がまだ遠いことを示していた。 母が死んでから、さびしさを振り切るように父はいっそうに仕事に打ち込むようになった。ラクスに向けられる父の愛情は変わることはなく、ラクスを取り巻く環境はいつも優しくあたたかいものであったし、ラクスは決して不幸ではなかった。けれども欠けてしまったものはあった。いつからか、ラクスは孤独の中にあった。誰のせいというのでもない。元より理解しあうことができない会話よりも、ラクスはひとりであることを好む傾向があった。 もっと子供であった頃には、孤独を気にはしなかった。その意味も存在すらも知らなかったからだ。世界は狭く、そのすべてはラクスのものであったし、何よりそれは美しかった。 いくらかのとしつきを過ごし、母の死を過ぎて、むしろその頃は孤独を好んだ。ラクスは日々のほとんどをひとりで過ごすようになっていた。まわりに誰がいても、変わることはない、ラクスはひとりでいた。婚約者であると定められたアスランといたときにも。いつでも、気遣うように瞳を向けてくれる彼をラクスは素直に好ましいと感じていたし、この人と未来を歩いていくのだと、漠然とした感覚もあった。 それでも、ラクスという存在の根底には、いつも孤独があった。誰にも届かない夢。共有のできないビジョン。歌姫と称される立場から、思うまま軍に志願をしたときにも。きっと、ずっと、ラクスは何かを探していた。 不意に遠くから聞き馴染んだ音、精巧にプログラムされた声が聞こえたように思って瞳を上げる。照明をつけても周囲にはやはりその影はなく、扉に手をあてればいつからかパスワードが解除されたままになっていたらしいそれは、小さな空気音だけを立ててあっさりと開いた。苦笑の温度で、けれど微笑を伴う確信にそのまま、ラクスは静かな足取りで部屋からを抜け出した。夜と定められた時刻。絞られた照明のやわらかな光に押されるように追いかける、居住区の奥に進んでいく。誘われるようにして、展望室にまで。手を壁に触れ、音の立たぬように足をとめて見やる。薄がりの続く中をそこにだけ、緩くともされた光はあたたかくハロと、ひとりの少年を照らしていた。 「…だめだよ、ハロ。夜は静かにね」 小さく落とされた諭すような口調に、ピンクのハロはぱたりとその動きをとめる。心なしか下に向けて体を傾がせる仕草はまるで拗ねた子供のそれだ。振り向かなくてもわかる、彼は子供をなだめるのと変わらないやさしさで微笑みを向ける。ことばがなくとも伝わるような、ひどく微笑ましい様子をする。吐息をもらした気配にだろうか、彼の肩に寄り添うようにとまっていたトリィがふわりと舞い上がる。 「トリィ?」 緑の羽をはばたかせて、機械仕掛けの小鳥はラクスの腕へとひそやかな重量をそえた。やわらかな風が頬を撫でる仕草で触れる。不思議そうに振り向いたキラと瞳があって、ラクスはそっと微笑みを返す。 「……ラクス?」 「こんばんは、キラ」 見開かれた瞳は、すぐに刹那揺れた色を隠すように笑む。ラクスは何にも気づかない素振りで、いつもと変わらない、やさしい微笑に踏み込んだ。ハロを拾い上げるように屈んでいた、キラのすぐ傍らへ。 婚約者である、アスランとは幼なじみなのだと、初めてキラのことを知ったのはほんの他愛もない会話の故だった。誰に対しても等分な誠実さで接するアスランが、遅れて配属されたとはいえ、同じ紅服のメンバーにも関わらず彼に対してだけ殊更に頑なな態度を崩さないとあれば、表立ったものではなくとも話題にはなる。記憶に残っていたことからか、談話室に忘れられていた本を見かけたときには、以前それを彼が手にしていた姿が思い起こされていた。ただ、それだけだった。同じ通路、部屋の前を通りすがるのだからと、そうしてキラの部屋までを届けた。 「ラクス、さま」 モニター越しにも、印象に残る虹彩を分かりやすくまたたかせたキラに微笑んだ。すぐに開かれた扉。礼をとったキラの肩に、かすかな音を響かせて、初めて見る小さなペットロボットが舞い降りる。わずかに慌てたような所作の意味もわからず、ラクスは瞳を瞬かせて問いかける。 「キラさまがお造りに?」 「…いえ。以前に、友人に、」 言いかけて、律儀に訂正をされた。どうかキラと、呼び捨てに呼んでほしいと。幾年か前、まるで同じ会話をアスランとも交わしたことがあって、懐かしく誘発をされた記憶に唐突に思い当たる。あまり自身のことを語らなかったアスランがもらした言葉。ハロを初めて送られたときだったろうか。マイクロユニット製作は幼い頃から好んで、幼なじみの友人に、鳥形のそれを送ったこともあったと。 「アスラン?」 「え?」 否定をするでもなく、混乱したように向けられた視線が肯定を告げていた。常の穏やかに落ち着いた印象とは異なる、どこか幼さの残る表情で見つめられる。 「わたくしのハロもです。同じですわね」 手をあわせて微笑むと、どうにかぎこちなく笑顔を向けられる。困惑したような、戸惑いの色は残したまま。 「あの、」 「はい」 「…トリィのことは、彼には言わないでほしいんです」 「秘密ですのね」 声を返せば、受け入れられる想定をしていなかった様子で視線を向けてくる。当然に、質問を返されるはずの要求だと。けれど悪意のないものであるのなら、それはラクスの知る必要がないことだ。 「ありがとう、ございます。ラクスさま」 「…その代わりに。わたくしのことも、どうかラクスとお呼びくださいな」 秘め事のように、ささやいた言葉に彼は瞬く。次にはあたたかな微笑みを向けられていた。これまでに見たことのないような、やすらいだ表情はひどく幼く儚くおもわれた。遠い昔に失った、何か大切なもののように。 「ありがとう、…ラクス」 合わされた、穏やかに緩んだ瞳は、何にも揺れるはずのなかったラクスの胸の深くにも、ひそやかにぬくもりを残した。 今では、ラクスはキラの過去を少しだけ知っていた。かつては、月にいたということ。アスランがプラントへ戻ってから、コーディネイターにとっては険しくなるばかりの状況に押されるように、ナチュラルの両親と共にオーブの資源衛星、ヘリオポリスへ渡ったこと。戦況が思わしくなくなり、個人データの流失からか、両親や友人の安全と引き換えにと、モルデンレーテで極秘裏に進められていた新型MSの開発に携わらされていたこと。ザフト軍のMS奪取が成功した際に、当初は捕虜として、連れてこられたのだということも。 彼の能力を見とめ、ザフトにとの選択肢を与えたのは、誰も素顔を見たことがないとされるラウ・ル・クルーゼ隊長だということだった。ただ、それらを承諾をした理由だけは、彼は決して口にはしなかった。一般には知られていないことでも、裏切りだと後ろ指を指す者はいる。それでも彼は、彼の選んだ道を、二度と後悔はしないのだと言った。まっすぐに前を見据えようとする、稀有な色はガラス越しに遠い月へと向けられていた。本当に綺麗な瞳だった。 キラと出会うまで、ラクスはただひとりであっただけだった。ただ、ひとりでいる。まわりに誰かいるのに、ひとりでいる。求める誰かがいるのに、ひとりでいる。それらは似たようでいてまったく異質のことだ。 そうして、ラクスの世界には、キラが現れてしまった。まるで魂が触れたと思った。キラにとっては、この出会いがどんな意味を持つのかはわからない。それでも、ラクスは。 腕にとまったままのトリィへと静かに微笑みを向ける。添えるように伸ばされる指が触れたときにも、瞳を上げはしなかった。穏やかな気配で、彼の微笑も同じように向けられているのだろうとわかる。瞳を合わせなくても、ふたりとも微笑んでいるのだと確信できる。 すべてが消えてしまうとは到底思えない。この記憶や気持ちが、いつか昇華されてしまう日が来ることなど。けれども、彼とある、この先の未来を思い描くこともまたできなかった。それらは、今では何処か遠いことのように、遥かに感じられた。 だから今はただ、彼から向けられるものたちを何一つ落とすまいとラクスは思うのだ。時折落ちる二つの合成ボイスよりもひそやかに、彼のささやきは響く。トリィを渡すようにと触れた掌はいつしか重ねられて、伝わる体温に、発せられるはずだったラクスの声は掻き消されてしまう。ああ、と、ラクスは堪らずに目蓋を引き下ろした。それでも彼の微笑みは届く。やさしいこえ、やさしいてのひら。大切に、すべては決して溶けない雪のように、ラクスの中へと降り積もってゆくのだ。 |