降ってるよ、と誰かが言い出し、さらさらと遠くから響いていた何がしかの音が雨のそれだと漸く認識する。途端鮮明になる響きは思いのほか強く、ディアッカはほんの僅か顔を顰めた。雨の音も雨の景色も別段嫌いではないけれど、その中を帰る道程を考えればやはりいささか憂鬱だ。
 所詮は制御された天候に、予報をチェックすればこんな事態に陥ることもなかったのだろうけれど、運悪く今日に限って時間がなかった。当然置き傘などをするほどのまめな性格ではないし、傘をシェアするほどの仲の誰かもいない。かといっていつ止むかもわからない雨を待って雨宿りなんてもちろんごめんだ。濡れて帰るしかないかと考え、気の進まない足取りで廊下を歩いていた。とうに無人であるはずの部屋のドアが開かれたままであったのを、覗き込んだのには深い意味もなかった。シュミレータの前で佇んでいた人影に、声をかけたのも本当に気まぐれだ。
「お前も傘なし?」
「…ええと」
 すぐに向けられた瞳は、淡く瞬いて、むかって反対側の机の横に立てかけてあった透明なビニール傘に向けられた。当然のように同類かと思ったのだが、考えてみれば他にもいくらでも理由はあるのだろう。あー、と視線を宙にさまよわせ、それから軽い調子で帰る気しねーよなぁと肩をすくめてみせれば、やわらいだ笑みを返す。人懐こい性質をしているのだと知れた。
「使う?」
 顔をわずかに傾ぎ、さしだしてくるのにはけれどまばたいた。外はまだ雨で、降り止む気配も見えない。
「二本あんの?」
「ううん、ないけど」
 別に、いいよ。問いかけをあっさりと否定して、そんなことを言う。
「…んー。さすがにそれはなー」
 アカデミーから寮までは少し歩く。傘を奪ってまで濡れたくないのかと言われれば当然濡れたくはないのだけれども、それはさすがにいろいろとまずいような。しばし首を捻り、それからはたと気づいた。
「一緒に帰れば問題ないよな?」
「え…」
 驚いたように開かれた瞳は、零れ落ちそうに大きい。随分童顔だなと今更に思い、それから苦笑をした。見覚えがあるように思った理由に漸く思い当たった。
「迷惑?」
 わざとらしく傷ついたような顔を作ってみせれば、慌てたように首を振った。連れ出した手に、幾分か小さな手のひらはひんやりと冷たい。もともとあまり高くはない自分の体温を思い、強く握ればあたためられるだろうかなどと詮無いことを考えた。




 あれは寮の、休憩室でのことだった。喉が乾いたと言って、珍しく自分で買いに行ったルームメイトがいつまでも戻らないので、また何か騒ぎでも起こしているのかと部屋を出たのだ。自販機があるのは休憩室か、あとは外に出るしかない。そうして、まっさきに向かった休憩室で、立ち尽くしている姿を見つけた。
 ソファーに沈みこんで、眠っていたのはあれはキラだったのだろう。寝顔からは、どこか幼い印象を受けた。その前で、イザークはまるで身動きもしない。どれくらいそうしていたのか、視線はただキラに注がれていた。
 声をかけそびれたのは、イザークの表情がひどく優しいものであったからだ。ほとんど瞬きもしない瞳は、どこか真摯な色を湛えてキラを見ていた。けれどもやがて、伸ばされた手が軽く肩に触れた。声をかけているようだったが聞き取れなかった。それでも、起きるように促したのだろうことはわかる。それならば直に戻るだろうと考えて、ディアッカはその場を後にした。
 結局、そのまま言いそびれている。




 かたちを持たない雨粒は、どんなに閉じられた部屋の中までも音を落とすのだから、キラ一人など簡単に包み込んでしまう。やはりひとつの傘では遮れきれず、雨を吸った靴はいかにも重そうだ。自覚などはきっとないのだろう、話しかければ笑顔で言葉を返した。簡単な自己紹介に続いて、他愛もないことだ。共通の課題の憂鬱性だとか、それから特に意識もせずに、ルームメイトの話もした。名前は出なかったが、キラの話を聞いていれば非常に優秀な奴なのだとは知れた。その優しく面倒見のよい友人について、どこか嬉しそうに口にしながらもわずかにくもったキラの表情に、想像はついた。
 もしも、部屋に戻りたくないのなら。イザークに異論がないのなら特に問題もない。考えながら何気なく寮へと視線を向けて、ディアッカは目を開いた。
 玄関脇の壁に寄りかかるようにしてだ、濡れた髪は重く下に流れ、そこから細い筋が流れて落ちた。制服の色は元のそれよりも遥かに色濃い。
 見覚えのある、顔だった。ディアッカ自身特に親しいわけではないが、かなり激しい気性であるところのイザークが昨日も突っかかっては軽くあしらわれていたばかりだ。けれども、ひどく違和感はあった。何度か瞬きをしたが変わらなかった。
 横で、キラは足をとめたままだ。ディアッカの視線の先で、そうして伏せられていた瞳が向けられた。キラの姿を認めた瞬間に、ひどく穏やかに緩められた表情をそのままに、そっと微笑んだ。ディアッカのことは、きっと視界に入ってもいない。
「…………アスラン」
 小さく、落とされたキラの声は震えていた。アスランが近づいてくるのにもまるで動かない。差し出された手をぼんやりと見やって、それから弾かれた様に顔をあげた。
「なんで……ッ」
 後は続かなかった。かすかに首を振るようにして、離れようと後退る。泣き出しそうな顔に、腕を掴もうとしたのを阻んだのは無意識だった。
「……どいてくれないか」
 漸く向けられた視線に、内心は複雑だ。自分とは全く関係のないと思っていたものが、突然降り掛かってきたという気がした。
「嫌だって言ったら?」
 けれども、引こうという気が起きないのだから仕方がない。笑う気配で言って、途端険しくなったアスランの表情には目を細めた。




 お前はいつでもそうやって本気になろうとしない。そういうところが。

 哀れむように向けられた言葉を思い出して、少しだけ笑った。




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