冷えて澄んだ空気が肌を撫でていく。空はまるで真綿を敷き詰めたように明るく淡い白銀だった。見上げて、清澄なその色に犬丸は目を細める。
 いつものように部屋の扉を開けて、けれど目に触れる世界は常よりもいっそうに眩しく思われた。空気までが違うように感じていた。学校が終わり連れ立って駆けて行く子供たちを横目に見かけて、反射的に年齢層が違うと思う。長く繰り返した日々に沁み付いてしまった思考に、それから少し笑った。
 今日は彼と会う約束をしていた。こちらの世界からすればひどく現実離れしているのだろう話を聞いて、受け入れることを了承してくれた彼と。


 彼が指定した場所は、閑静な住宅街からさらに一歩中に入った、細い道の先に開かれた公園だった。土地の段差から一方はコンクリートで舗装された壁になっていて、いくつかの遊具と数個のベンチが置かれている。
 他に人影はない。彼の姿はまだ見えない。早くに来てしまった自覚もあったので、犬丸は一番手近な場所にあったベンチに腰を下ろした。公園の規模はそれほどではなく、見回せば簡単に見渡せる広さだった。道との境界には木々が綺麗に葉を茂らせている。
 据え付けられた時計を見ても、指定された時刻まではまだかなりの時間があった。そっと息を吐いて見上げる、空はやはり麗しく淡い白金の色だった。穏やかで静かな冬の午後だ。これからの日々に待ち受けているはずの、自身の周囲を取り巻く全てのことも、まるで遥か遠い世界のことのように思える。


 次期神を選ぶ為のバトル。百人の神候補が各々の選んだ一人の中学生に能力を与え、その人間を頂点へ導くことを競い合うゲーム。天界で選ばれた、犬丸はその百人の中の一人だった。神になろうと考えたことなど一度もなかったが、候補者として指名されたことは光栄なことだと思っている。面と向かって告白するには抵抗があるが、尊敬している人も同じく選出されているのだ。しかし可能性のないことでも、選ばれた以上は全力を尽くすべきだろうとも考えていた。
 それに加え空白の才の存在があった。優勝者の人間に与えられる、望めばどんな才能でも手にすることができる権利。悪意を持ってすれば悪用することも容易な、まだ幼い一人の人間に与えられるには大きすぎる誘惑だ。
 多くの対象者の中から、それに相応しい一人を、本来ならば人が手にするはずのない天界人の能力を与え、長期に渡って見守るたった一人を選ぶ。
 長い日々だった。他の候補者達と同じように、犬丸も本当に数え切れないほどの人数を見てきた。モバイルでの才数の目安はあっても、容易なことではないだろうと事前に思い描いたそれよりも、遥かに厳しく地道な行為だった。期待し、託すのは能力ばかりではない。エントリー最終日までにまだ日はあっても、見つけることができないまま一日を終える繰り返しにはほとんど失望を隠せずにいたのだ。そんな誰かは、この世界の何処にもいないのだろうかと。


「ワンコ!」


 声に弾かれたように顔を上げれば、手を上げて駆け寄ってくる姿が見えた。少し長い黒髪に、額に巻かれた布が風にたなびいている。学校帰りの為だろう、服装はいつもの浴衣ではなく初めて見る制服姿だった。布の下から片目にかかる火傷の痕と、笑みに細められた眦。
「ハチマキくん!」
 姿を見止めただけでも自然笑顔が浮かんでしまう。立ち上がって数歩を歩み寄る間に距離は縮められていた。
「悪い、待たせたてしもたな」
 走ってきたのか息を弾ませながら、すまなそうに見上げられて犬丸は慌てて首を振った。
「僕もさっき来たばかりだから。それよりも君が来てくれて、嬉しいです」
 手を伸ばして、片方の手を取り手袋に包まれた両手で握り締める。熱意を込めて口にすれば、彼は少しだけ眉を顰めた。
「約束したやろ。信じとらんかったんかい」
 責めるような口調で告げながらも目は笑っている。犬丸の目を真っ直ぐに見据える、強い意思と揺らがない信念を持った瞳。物怖じしない眼差しが、胸が震えるほどにうれしい。
「……僕はずっと、君を探してたんです」
 胸に溢れる感情は本当に、在り来たりの言葉にしかならなかった。どれだけ言い募っても足りない気がした。真実理解されることなんてきっとない。答えにもならない言葉で手をさらに強く握り締めて見つめ返せば、彼は呆気にとられたように目を大きくした後、肩を震わせて笑い出した。
「そうやったな」
 初めて逢った時に感じた直感は今も犬丸を貫いている。神候補として選ばれた責任や空白の才への懸念など彼方へ飛ばされてしまった。当初は義務感にさえ近かったはずが、今目の前にいる彼以外が優勝する未来が犬丸には想像もできないのだ。まるで一目惚れの強さの衝撃。本当に鮮烈だった。
「あ、ハチマキくん」
「ん?」
 そっと手を離しながら、犬丸はふと思い出して告げる。
「制服もとっても似合いますね」
 脳裏に思い浮かんだままの感想を至極真面目に告げたのだが、彼は怪訝そうな表情になる。
「学生なんかええかげん見飽きとるんちゃうんか?」
「あの、ハチマキくんが着てるのは初めて見たので……」
 言いながら少し照れて伏せ目がちに笑えば、不意に彼の肩から力が抜けた。一度迷うように視線を落した後、なんともいえない顔をして犬丸と目を合わせてくる。
「……ワンコ」
「はい?」
「ええけどな。おれ以外やったらもうちょい言葉は選んだほうがええで」
「え?」
 言葉の意図を掴みかねて見返せば、彼は空を仰いで少しだけ笑った。その表情がひどく幼く見えて、犬丸は一時息を忘れた。一回り以上も年下の相手なのだから、当然のことであるはずなのに。
「それとなぁ、おれは佐野や!」
「……あ、は、はい!」


 世界にたった一人の誰か。理想の正義を持って、何にも揺らがずに清廉に在り続ける。犬丸がこれまで深く影響を受けてきた小林とも違う、佐野と出逢って初めて、犬丸は運命を見つけたのだと思ったのだ。


「佐野くん、本当に」
「おれしかおらへんのやろ?」
 ベンチに並んで腰掛けて、バトルや能力の種類、それに伴う危険まで再度細かな説明を繰り返しても、引き受けると告げた彼の決意は変わらなかった。いたずらっぽく笑って片目をつぶる。
「それは、僕の都合で」
「おれがええ言うとるんや。それとも気変わってほしいんか?」
「わ、わかりました。あの、じゃあ少し目を閉じてもらってもいいですか」
「へ?」
「能力を与えるって初めてなので……集中したいんです」
 答えながらも、意識は見上げてくる瞳の動きを追う。彼は少しのあいだまじまじと犬丸の顔を見つめ、やおら眉を下げた。
「なんやワンコ、頼りない担当やなぁ」
 くすくすと笑いながら瞼を下ろす。それからふっと体の力を抜いた。近い距離を吹き抜けていく風がふわふわと彼の真っ黒な髪をもてあそぶのを眺めながら、額から少し離れた距離に、犬丸は左手を添えて右手を翳した。
 何億分の一の確率、口にすれば彼は笑うかもしれない、それでもほとんど天文学的な数字で出逢えたのだと犬丸は実感を伴って知っている。その尊さを思えば、泣きたいような心地さえしていた。
「――佐野くん、……君が」
 本当に小さく口の中で呟いた言葉。きっと彼には届いていない。犬丸はそれで構わなかった。溢れ出す薄赤い光、指先からは仄かにあたたかい熱を感じていた。その先に染まる表情を見つめて、犬丸はそっと瞼をおろした。

TITLE:世界でたった一つの
loca:あいうえお44題