「……いや、あかんやろ」
 何処から持ち出されてきたのか、窓近くに置かれた鏡へ向けた空笑いはやはり不自然に引き攣って見えた。佐野は頸を振って力なく息を漏らす。眺めやる鏡の向こう側で、見慣れた浴衣を身に着けた自分が全く同じ動きをしてみせる。つまりは、それが今の自分の姿なのだが。
 数日後に予定されている、生徒主導の学校内イベント。よくある類の企画の一つだとしても、強制的に借り出される身としてはとても堪ったものではない。
 額の手拭いは外されて机の上に置かれていた。一度ゴムバンドのようなもので前髪を持ち上げられて、担当の女子から遠慮の欠片もなく粉をはたかれた。目を瞑らされていたので細かく手順を追ってはいないが、他にも目の周囲や口の上に色が重ねられている。あからさまに濃い色ではなく、印象としては薄く留めてあるのがかえって佐野の胸中を寒々しくさせる。今は落とされた前髪も、それ以外の部分も丁寧に櫛で梳かれて、他は弄られていない髪型もいくらかは違った雰囲気に見えるようだった。とはいえその程度ならまだ、勢いで流してしまえる気でいたのだ。
「似合う似合わない以前の問題とちゃうんか……」
 ネタにするにしろ見苦しい格好だ、と佐野は鏡を眺めながらげんなりと肩を落とす。先に上半身のワイシャツだけ脱がされて、手際よく装着された下着にはしっかりと、肌に付ける形式であるらしい柔らかな質感のパッドまで詰め込まれている。絶対に外さないように念押しされた上で、浴衣を着る間だけどうにか一人にしてもらえたのだが、すでに諦めていたこととはいえこれで部屋の外に出る気力はとても出ない。女子用の制服を回避させてもらえたのはまだ救いだったが――
 鏡から離れ、扉へ向かいかけてはまた戻り。うろうろと行ったり来たりを繰り返した挙句に、ようやく鍵までかけた取っ手に手を伸ばしかけ、しばし瞑目。本番では声も出来るだけ高めに、と理不尽に告げられた楽しげな声が脳内にこだまする。他にもいくつか要求を述べられた気がするが、憔悴して聞き流していたのでよく思い出せない。とりあえずここは学校で、外では律儀に後を付いてくる相手に見られる心配は、幸いなことにない。笑える境遇に追い込まれているのはそもそも自分一人のことではないのだから、せいぜい盛大に笑いをとろうと覚悟を決めて、顔を上げたところで。

「佐野くん?」
「へ、」

 真後ろから呼びかけられて、佐野は反射的に振り返る。聴覚にはすっかり聞き慣れた声のように聞こえた。――いやいやいや、聞き間違いやろ。佐野は往生際悪く内心に言い聞かせたが、視覚に捉えた映像ははっきりとそれを裏切っていた。逆光の方角、窓を半分ほど引き開けた窓枠に、犬丸が膝をかけた格好で動きを止めている。
「……ワンコ」
 驚いて呟いてから、はたと我に返る。佐野は慌てて窓まで駆け寄り、窓の端に置かれたままの犬丸の腕を引いた。勢いが強かった為か、ぼんやりとしていた犬丸がバランスを崩して、ほとんど佐野に向かって落ちるような形になる。咄嗟に犬丸が片手を付いてくれたので、腕に抱き止めて床に背を打ちつけた佐野も辛うじて押し潰されるには至らなかった。
「っ……」
「だ、大丈夫ですか佐野くんッ」
「――そ、ないなことよりな、あんなとこでぼーっとしおって誰かに見つかってもうたら――」
 痛みに顔を顰めながらも一息に言い募ろうとして、佐野は言葉を止めた。起き上がりながらも気遣うように佐野を見つめていた犬丸の目が、佐野の身体の、普段とは違うラインを描く胸元を見止めて見開かれたからだ。
「……さ、さの、くん、」
 動揺ぶりが伝わる、犬丸の震える声音で改めて現状を認識し、佐野は酷い目眩に襲われた。思考がさまよう。真直ぐに佐野の正義を見込んでくれた、せめて犬丸にだけは見せたくなかった醜態も、しかしこの距離では今更誤魔化しようもない。吸い込んだ空気まで胸に痞えるような重苦しい心境で、自分にとっても甚だ不本意なのだと説明をしようと思いながら、身体は無意識に少しばかり後退る。その手首を、伸ばされた犬丸の手が捕えた。
「そんな――女の子だったんですか……?」
「へ?」
 戸惑うように呟かれて、佐野はまじまじと犬丸の顔を見つめ返す。一瞬何を言われているのかわからなかったのだが、ゆるゆると遅れて意味を理解するに至り、思わず腕を掴まれたままの佐野の肩からがっくりと力が抜けた。
(も、もう、どんだけ一緒におると……)
 初めて出会った時も、一方的に告げられた考慮期間の一週間後も佐野は浴衣姿だった。銭湯に向かう途中で緩く着流していたから、胸元だってそれなりに開いていた。どうやっても勘違いの仕様がないはずだ。そもそも、声や顔にも迷いようがあるとは到底思えない。こない目つきが悪い女がおるはずないやろ。
「……ワンコ、あのな」
「なのに僕は、君を止めもしないであんな危ない真似を……。能力も、じきに始まるバトルにも巻き込んで、これからだって、」
 掴んだままの手に視線を落としながら、弱く呟かれる。細いが骨張った犬丸の手に比べれば、確かにまだ佐野の手は幾分細さが際立つ。けれどそれでも、歳を鑑みればそこまで頼りないとは佐野は思わない。信じて託された能力を使いこなすだけの覚悟は、とうに握り締めているのに。
「……なんや、おれが女やったら、ワンコはおれを選ばんかったんか」
「え?」
 ぼそりと呟けば伏せられていた顔が持ち上げられて、大きな目が佐野を見つめてくる。いつでも太陽のようにやさしい色ばかり落とす瞳だ。強い視線で覗き込みながら、佐野は続けた。
「それでワンコは別の誰かを探すんか。――おれはワンコにとって、その程度なんか」
「そんな、そんなことありません! 何があっても僕が選ぶのは君だけです。天界にだって君に代わる人なんかいない。僕には君しか――」
「やったら、ええやろ」
 ぶっきらぼうな口調で言い置いて、視線を外す。何気ない動作の素振りで目線を下に落としながら、佐野は熱が上りつつある頬をどうにか犬丸から伏せて逸らした。犬丸の言葉はいつでも直球だ。嘘はないと知っているだけに、苛立ちから自分が言わせた流れも手伝って、非常に居た堪れない心地がしてしまう。
「――でも」
 そうじゃなくて。違うんです。ぼそぼそと続けられる声を、顔は伏せたまま佐野は耳に聞く。
「僕が君を思うのに、性別なんて関係ありません。でも君が同性じゃないなら、僕は――」
 犬丸の声が徐々に震えて滲んで、掴まれたままの手首を縋るように握り締められる。痛いほどの強さで指に囚われる。
「僕は、……君が、」
 腕を引いて、犬丸の胸へと身体を引き寄せられる。驚いて目を上げれば間近に、今にも泣き出しそうに揺れる瞳が見えて、その瞬間の佐野のあらゆる感情を奪い去った。
「佐野くん……」
 薄く色を刷かれた口へと吐息が重ねられて、そのまま犬丸の腕の中に閉じ込められる。狼狽する佐野の心臓を強引に絡め取った犬丸の声は、すでに涙の気配で濡れていた。
 ずっと好きだったんです。――君のことが、……ずっと、もうずっと前から。繰り返し名前を呼ばれて、熱く耳元へ吹き込まれる言葉に息もできない。誤解に基づく告白に応えてやりたくても、唐突に火を投げ入られた佐野の胸には熱が暴れるばかりで言葉が上らなかった。

TITLE:女装の才