二度、名前を呼ばれたのだったか。静かな声からは何の感情も窺えない。逆らうという選択肢はなかったので、顔を上げて見返せばそのまま、腕を掴んで連れ出されていた。


 雨が降っていた。傘の淵から滴り落ちる水滴は容赦なく肩を濡らしていく。手首を握る力は然程強くはないが、どうしてこんな目にあっているのだと内心溜息を隠せない。差し掛けられている傘は片方に寄っているわけではなかったから、視線は向けないが隣を歩く肩も濡らしているだろう。手を引かれる方角にだけ向けていた目をちらりと上げれば、枝々の合間にのぞく空は等しく鈍色の雲に覆われていた。一定の歩調で歩きながら、ロベルトは特に口を開かない。
 同じ国の地続きでも距離が離れてしまえば天候はまるで違う。ぼんやりと足を進めながら、知ってはいても見上げれば空の続く先を思い描いてしまう。当分降り止みそうにない空であっても、彼の頭上には晴れてあればいいのにと考える。雨が降るのなら、やがて上がる空にはどうか虹がかかればいいと願う。見ることはできなくても、笑っていてほしかった。わずかでも胸を痛めるくらいなら忘れてくれていい。届くわけもないのに、そんなことばかり考えている。あれから、ここに来てからはずっとだ。


 会いたいの。
 外へ出た後も続いていた沈黙に、前触れもなく言葉を落とされて佐野は足を止めた。一歩前に歩んだロベルトが、こちらを振り返る。腕は握られたままだ。強い口調ではなくても、問いかけには答えが要求される。誰のことかと返せばよかったのだ。数瞬遅れて思う。けれども、佐野は答えられなかった。
 思い浮かぶのは、いつでも一人だった。容赦のないやり方で、能力者は相手を選ばずに気絶させる、そのバトルの最中でも。才だけが増えていく。きっともう喜んではくれないだろう。以前と同じように自分を見て笑ってはくれない。それでもいいと、選んだのは自分だった。後悔もしてはいない。ただ、出来るなら知りたいだけだ。離れてからの日々も、本当に無事でいるのだと確かめたい。けれどそれも、今の立場では到底願えることではない。
 雨に打たれるまま、意図を掴めずにその表情を追う。瞳をゆるめて、ロベルトはかすかに笑ったようだった。
「たとえば、」
 穏やかで、優しく聞こえる声で続ける。
「たとえばここで、僕が君にバトルをしかけたら、君はどうするのかな」
 ――誰もいない場所で、二人きりで。逆らって、僕を倒そうとしてみせる?
 再度の問いかけに、表情を消しきれてはいなかっただろう。ロベルトに逆らうことはできない。けれど能力を失ってしまえば、守る為の約束さえ果たせなくなる。追い詰められた佐野の感情を反転されたように、哀れみすら宿してロベルトは佐野を見る。
「どうしてほしいんや」
 咽喉の奥から震える息を搾り出せば、聞かれたことが不思議だとでもいうように、ロベルトはゆっくりと瞳をまばたかせてみせた。
「たとえ話だよ。君は十団に入ったんだから、今は僕の所有物だってこと、君がもっと自覚してくれたらいいのにと思って」
 言いながら無遠慮に腕を引かれた。傘を地に投げて、薄い胸へ肩がぶつかる。見る間にロベルトの服も色を変えていく。腕は掴まれたまま、もう片方の手を首の後ろへ回された。
「人間の君を殺すのなんて、簡単なんだよ。こうして、一つ神器を発動させるだけでいい」
 耳にくちびるを寄せて、首筋に冷たい指を添わされる。守れなくなることは怖い。濡れた前髪からは後を追うように幾つものしずくが落ちていく。
「……ああ」
 そうやな。目蓋を下ろして、佐野はつぶやいた。ほんの気まぐれで、命はきっと簡単に失われてしまう。真直ぐに向けられていた信頼を手酷く裏切って、謝罪の言葉も告げずにここへ来た理由。神候補ではなく、一人の友達として大切に思っているのだと伝えることさえしなかった。
「佐野くん」
 ため息のようなロベルトの声。手のひらで閉じた目蓋を上から覆われて、息の気配にも佐野は頑なに目を開かなかった。ふれ合わされたくちびるだけが、ロベルトが笑っていることを佐野に教えていた。

TITLE:目を閉じれば
loca:あいうえお44題