間近い夏の終わり。効きすぎた空調を止めて、机を挟んでカーテンに遮られていた窓へと手を伸ばす。引き開けた隙間から入り込んだ夜の空気は私の髪をわずかになびかせ、また指先で押さえたままの紙の端をふわりと揺らした。
 とうに日の境目を過ぎて、眠りに沈んだ街からは誰の声も音も届かない。開放され室内へ繋がった空気は肌を冷やすほどに冷たくはなく、ただ静寂ばかりを連れる。書きかけていた言葉を止めて、私は遠く遥かに星の散りばめられた空を見上げた。

 一年前。私には全てを投げ打ってでも手に入れたいと望んでいたものがあった。冷たい暗闇から掬い上げてくれた優しい言葉が、自分を利用する為のものだったと知らされた時も、正面から揶揄するように告げられても恨むことはできなかった。彼から差し伸べられた手のひらが、裏切られ傷つけられて全てに絶望していた私の世界にどれだけ貴く映ったか。苦しい感情を全て拾い上げて、一緒に歩もうと請われ、向けられた微笑みに一人きりで凍えていた心がどれだけ温められたか。
 今も到底言葉にすることはできない。笑っていてくれるならそれだけでよかった。ふとした瞬間、ほんの数刻であっても寂しげに伏せられるまなざしを、そっとゆるめて微笑んでくれるなら。どんな形であっても、彼が望む世界を手に入れられるなら。その為だけに生きられる時間は私にとって、確かに幸福と相違なかったのに。

 何度記憶を思い返しても、その時々に選択した道筋が最善だったかを自問しても、もう二度とあの場所へ戻ることはできない。日々を戻すことはできない。けれども後悔しているのかと聞かれれば、私はやはり返す言葉を迷ってしまうのだ。優しい仲間たち、揺らぐことのない思い、無条件に向けられる信頼と、明るい笑顔。あれらの日々で得たものは掛替えのないものばかりだった。彼と袂を分かってからも、私にとってはそれ以前も。比べることはできない。それどころか、私は今でも、もしも彼に十団に誘われなければ、これらの何一つ得られなかったかもしれないと考えている。自分にばかり都合のよい思考で、彼の思惑とは離れていても、全部彼が私にくれたものなのだとさえ思える。
 本心ではわかっているのかもしれない。何度機会が得られても、結局は同じ道をたどってしまうのだろうということ。それでも詮無く記憶を手繰り寄せてしまうのはきっと、自分の意識には残されていない空白があるからなのだろうとも。
 彼は人間への憎しみを失ったことで敗北を喫し、意識を奪われ、命まで削られたのだと聞いた。前任の神様がある程度バトルでの能力による制約を無効にしてくれたと聞かされても、彼の身体へかけられた負荷を思えば胸は占め付けられた。彼を助ける為に、私にできたことは本当にささやかなものにすぎなかった。それにも関わらず、天界力の助けがあってもまだ日々の大半を病室で過ごしていた彼が、私が地上に降りる前にと時間を設けてくれて。たとえ届かなくても、変わらずに想い続けていた気持ちを伝えられればそれでいいと私も思っていた。
 あの日の記憶が、途中から切り落とされたように抜け落ちて、私の中のどこにも残されていないのだ。思い返そうとしても、そこには初めから空白しかないかのように何もない。それは警鐘めいてさえいた。記憶を探ろうとしても、空白の時間までをたどる映像さえ薄くぼやけて、すぐに形を結ばなくなってしまう。心のどこかで、記憶がここまで拒否するような事象ならば、知らないほうがいいのかもしれないと直感している。実際、感覚が麻痺してしまったような心地だった。その日を境に、あれほど思い詰めていた彼への感情そのものさえ、頼りなく揺らいで感じられた。感情を置き去りにして、時間だけが留まることなく私の上を通り過ぎていく。何かを見失ったまま、私は一人で立ち尽くしている。痛みも哀しみも全て胸に抱えて、いつまでもそれだけを憂えていられたらよかった。

 彼の思い出。優しい声。私の中では、それはいつも名前を呼ばれる記憶に直結していた。けれどそれらをたどろうと瞳を閉じても、目蓋の裏には不意に違う面影が過ぎる。私の名前を呼び捨てる人は沢山いるのに、いつも、――いつも。
 私は手を引かれて歩いている。ほとんど引きずられるような形で、どこかから遠ざかっていく。不安に思い何かを言いかける私の言葉は、ささやくような声音で遮られてしまう。
『鈴子』
 顔を上げてはいけないのに、反射的に持ち上げた視界が捉えてしまう。向けられているのは、見慣れた表情よりもずっと静かな、優しい瞳で。
『わからんようになるんは、今までずっと我慢しとったからや。……鈴子が悪いんやない。せやから、もう』
 手は握られたまま、持ち上げられたもう片方の指が、私の目尻を掠めるように触れて離れていく。指先を濡らしたはずの何にも気付かない素振りで。同情でも憐憫でも、そんなふうに気遣われた記憶も何処にもないのに。
『大丈夫やから。――怖かったな』
 子どもを宥めるみたいに頭を撫でて。一歩分だけ先で、私が歩き出すのを待っていてくれる。知らないあなたの面影が、心に焼き付いて離れない。

 私はきっと、これから岐路に立つたびに彼のことを思い出すのだろう。そうして何度でも、私が選んだ道を一人で歩いていく。その先のいつか未来の日に、感謝の想いだけでも彼に伝えられたらいいと願う。そう思えることすら幸せなことなのかもしれないと考える。
 胸に残るあなたの面影、あなたの記憶。―― そう、わからないものは怖いから、心に掴めない感情へは手を伸ばせない。会いたいと願うことも。だから今はまだ、近況を知らせる言葉もあなたには送らない。

 もう一度、空を仰いだ。この世界の何処へも続く星空が私を見下ろしていた。行き先のない手紙を綴りながら過ぎていく。一人きり、本当に静かな夜だ。

TITLE:たどり着けば、あなた
変わっているお題配布所:048