声がはっきりと佐野を呼んでいる。姓であっても佐野にとっては滅多に呼ばれることがない音だった。適当に割り振られた番号での呼称のほうが余程馴染み深い。部屋も個別に隔離されているので、どうとでも声をかけられれば呼ばれていることはわかる。これまでの十四年間を、佐野はずっとそういうふうに育てられてきた。


 人の手で都合よく調整された外見を具える。意思はある。思考し、感情がある。そういった人と相違ない知的レベルを備えているのも、あくまで添物扱いでしかない。生まれ持って深層心理にまで刻み込まれている意識、それはすでに強迫観念と呼んで差支えがなかった。
 育てられていく過程でも、同胞に対してでさえ佐野はほとんど誰にも興味も関心も引かれなかった。ほんの一人、綺麗な緑色の髪をした二つ年下の少年と親しくなったことがあったが、幾日も過ごさぬうちに引き離されていた。それ以来ずっとひとりきりだ。
 人に慣らすためか、時折他愛のない会話を強制されて過ごす時間も設けられていたが、佐野は人と居ることが正直疎ましくて堪らなかった。ある程度賢いものもそうでないものも、相応に莫迦ばかりだと感じていた。期待をかけるだけ無意味な、結局つまらない価値観しか存在し得ない世界なのだと思っていた。
 そしてそう考える自分自身も確実にそのくだらない世界の一員なのだ。認められない生き方であるならいっそ投げ打ってしまえばいいのに、その程度の自由意志さえ手を加えられた意識には許されていない。望んで自害することは出来ない。しかしそれならばこの日々は一体あとどれだけ続くのか。考えることは佐野を疲れさせた。倦怠感が常に付きまとっていた。


 そうして惰性で命を続けていた、単調な日々の終わりはある日唐突に訪れた。佐野の買手が決まったと伝えられたのだ。選ぶ基準は万別だろうが基本は好みに寄る。佐野は相手の顔も知らなかったが、誰でも違いはない、人と暮らすのだと考えること自体が耐えがたかった。自由に過ごせる最後の日だと言われ、個室から食堂に連れられる途中で不意に思い付いた。目を覆うような欠陥があれば、わざわざそれなりの金を投げ打ってまで自分を買いたいと考える人間はいないのではないか。
 皿を運ぶのを手伝いたいと言って、佐野は普段立入りが許されてはいなかった厨房へ入り込んだ。その日は監視する彼らまでいくらか感傷的にさせていたのかもしれない。何せこれから利益をもたらすのだから、佐野が大人しく振舞っていれば向けられる態度も優しい。殊勝な素振りで油断を誘っておいて、料理に従事し忙しく立ち働く人々の目をすり抜ける。間際まで明確には考えないよう自分の思考も強く誤魔化して、火にかけられて沸き立っていた鍋の水を佐野は頭からかぶろうとした。
 重く床に落ちた鍋から響いた、金属性の甲高い音。動作の途中気付いた誰かに手を伸ばされ、弾き飛ばされた中身は顔の面積のほぼ半分、佐野の額から左目にかけてにかかった。こぼれた湯は瞬く間に床に広がって、辺りの視界を覆うように白い蒸気が立ち上る。しかし量はわずかであっても、しっかりと沸騰していた熱湯は佐野の皮膚を傷つけるには充分だった。熱いと言うよりも肌を深く突き刺して何度も抉る様な激しい痛みが、熱せられた皮膚から神経を貫く。突き飛ばされた衝撃で壁に倒れ込みながら、佐野は左目の周辺を手で強く押さえていた。身体の震えは止まらなかったが、どんな声も漏らすまいと奥歯を食い縛る。意識の端で聞こえていた悲鳴と怒声はすぐに澱んで遠ざかる。後悔は微塵もなかった。可能ならばもっと早くに実行していればよかったと考えながら、佐野は意識を手放した。


 わずかな期待は掛けられていたのか、治療には手を尽くしたのだと言われた。寝台に拘束されて、頭部だけでなく見下ろせば腕や足にも包帯は巻かれていた。佐野が受け渡されることが決まっていた先には別の誰かが宛がわれていったと聞いた。やはり顔に火傷のある容姿ではお気に召さなかったらしい。一人にされてから胸に歪んだ衝動が込み上げたが、発作的に笑おうとすればまだ癒えていない目蓋の皮膚が引き連れて痛んだ。
 治療を施されても佐野の顔に痕は残った。身体の瑣末な火傷は時間の経過と共に消えたが、顔の、それも広範囲にわたっての損傷の見た目を修復するには至らなかった。視覚機能が損なわれなかっただけ奇跡だと医者は言った。大概不本意そうな口調にはやはり佐野は笑ってしまった。たとえば片目が不具になっても、傍目に傷が分からなければ彼らはきっとそのほうが都合が良かっただろう。どこか哀れむような声音も気にはならなかった。買手の付きようがないと処分されるならそれでもいいと、冷めた思考で佐野は考えていた。包帯を外されないまま、再度買手が見つかったと宣告されたときにもおそらく嘘だろうと思っていた。告げる口ぶり、示される態度が以前のそれとは何処か異なっていたからだ。

 浴衣を取り替えられ、指し示されるまま外の世界へと連れ出される。堅固に閉ざされていた扉が開かれ、高い空と、四方に果ての見えない道筋が広がる。初めて触れる光景には目を思わず見張っていた。特に逆らおうという意識もなかった。けれど車に乗せられて、窓の外を眺めやりながら佐野は沈黙する。後部座席の左側で、シートベルトも強制されなかったので巻かれていないままだ。すぐ脇のドアに鍵がかけられずにいることを見止めれば反意が顔を上げた。
 通りをいくつか過ぎ、人通りの多い市街地に入ったのを契機に佐野はほとんど体当たりの要領でドアを抉じ開けた。スピードが落ちていたとはいえ飛び降りた衝撃であちこちを擦り剥いたが、足を無理にも動かして入り組んだ小路に逃げ込む。後方から強く牽制する声が響いていたが、はなから逃げ切れるとは思っていなかった。片目で上手く距離も掴めないまま、それでも佐野は振り返らずに脚を走らせた。どうせなら、無力な立場でもせいぜい逆らって抗って手間をかけさせてやろう。その程度の叛心と、それにもう少しだけ、外界を自由に見てみたいと感じていた。
 元より道も方角も知らないのだから、佐野は目に付いた人気の少なそうに思えた道を適当に選んでいた。交差する道は別段直角なわけでもなく、中途な位置から思いも寄らぬ方向に伸びていたりする。直線方向には続いていない曲がり角をまた興味深く眺めながら速度を落とさずにまわって、だから咄嗟に足を止められなかった。ちょうど逆方向からごく普通の速度で歩いてきたのだろう人間と、間近で見開かれた目を認識しながらほとんど全身で佐野はぶつかる。当然こちらのほうが勢いがあったので、相手を押し倒すような体勢になっていた。
「い、たた……」
 細い声音で呻く。上に乗り上げていた佐野が身体を引き剥がそうと胸へ手を付いたのに、相手は遅れて状況を把握したようで、弾かれたように顔を上げた。
「すみません。少し、余所見をしていて…」
 勢い込んで言いかけた言葉をぴたりと止める。剣幕に驚いて見上げた佐野の視線よりも、相手は腕や脚の端々を擦り剥いている佐野の現状を見とがめたようだった。
「怪我、もしかして僕のせいで、」
 離れようとした佐野の腕を掴んでおろおろと言葉を続ける。動揺がそのまま伝わってくるような頼りない素振りだ。
「……や、これは、ちゃうし」
 思わず否定の言葉が口をついていた。人間の、それも通りすがりの相手なんて本当はどうでもいい。無視して立ち去ってしまえばいいのに、声にしてから気付いて佐野は自分でも驚いていたが、目の前の相手がまだ気遣うように見つめてくるので戸惑って見つめ返す。
「違うって……、でも、ひどい怪我ですよ」
 目を数度瞬かせて、相手は慌てた様子でポケットからハンカチを引っ張り出した。一番酷く、すっかり血が滲んでいた佐野の左腕の肘へ、汚れるのも構わずに巻き付けて傷を覆うように縛る。
「さっき転んだんや。あんたのせいやないで、気にせんといて」
 少し首を傾げて、佐野は相手の行動を押し留めようとした。嘘偽りなく目の前の相手には関わりがない傷だ。けれども相手には納得がいかなかったらしい。
「それでも、今ぶつかったのは僕が」
 熱心に言いかけて、勢いよく上げられた顔がまた、はたと止まる。驚いたように開かれた視線を意識で追って、佐野もぴたりと思考を止めた。耳だ。そういえば隠すのをすっかり忘れていた。
(あー、あかん、忘れとったわ……)
 これで捕まって引き渡されてしまえば鬼ごっこも終わりだ。外に出たのが初めてだからといって気を抜きすぎだろう。さすがにため息が込み上げてくる。
「……あ、僕の帽子、」
 かくりと俯いた佐野をよそに、唐突に頭に手を当てた彼は、すぐに後ろに落ちていた帽子に気付いて佐野から身体を離さないまま片腕を伸ばした。黒い、――シルクハットだろうか。知識で知っていても実際目にするのは初めての形だ。ぼんやりと考えていた佐野の目の前でぱたぱたとはたいて、いきなり佐野の頭上へそれを乗せる。
「――へ、」
 状況が理解できずにぽかんと佐野が見上げると、困ったみたいな表情とぶつかった。佐野の頭にはいくらか大きすぎるそれは、とりあえず手で押さえなければ目元まで落ちてくる有様だ。
「ええと、外でそのままだと、ちょっと目立っちゃうかもしれないので」
 でもサイズ大きいですね……ごめんなさい。律儀に謝って佐野の手を掴んだまま、相手が腰を上げて立ち上がる。手を引き上げられ、佐野も相手と向き合って立つ形になる。
「とにかく、君の身体の手当てはしないと」
 目を覗き込んで真摯に告げて、手を繋いだままで相手はにっこりと笑う。見開いた佐野の視界が不意打ちにかすかに揺れた。痛みも何も感じていない状況では初めての感覚で、佐野はごまかすように目蓋をまばたかせる。咄嗟に下を向こうとしたところを、いきなり手を引かれて引き寄せられた。今し方佐野が向かおうとしていた脇道へ踏み込むように、距離を縮められる。
(なん――)
 名前を呼ぶ声。何かを言う前に聴覚へ駆ける足音が届いて、胸に顔を押し付けられたまま一時だけ佐野は息を止めた。まだ離れた距離から響く声は、ひどく覚えのある声音だった。胸中で嘆息する。諦めて振り向こうとした佐野の顔は、けれど目の前の彼の手のひらで押し留められてしまう。これではまるで、腕にかばうような体勢だ。
 たった今数回言葉を交わしただけの相手を、自分の事情へ巻き込むわけにはいかない。慌てて距離をとろうとしたが、逆に身体の向きを変えて抱き込まれて、通りからの視線も遮られる。
「……探されているのは、君?」
 壁に軽く背が当たる。そもそもが想定外の状況すぎて思考が追いついていない。彼の後方を足早に通り過ぎていった足音に意識を向けながら、佐野はかろうじて声を振り絞る。
「わかっとるんやったら……」
 誰がいつ戻ってこないとも限らない。早く離れないと、一緒にいるところを見止められかねない。続ける前に掴んだままの手を握り直されて、困惑しながら顔を上げる。
「こっちに」
 迷いなく方向を定めた視線は振り返らずに、佐野の手を引いて、走り出す。振りほどくタイミングを見失ったまま、佐野は呆然と名前も知らない人間の背を追った。

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