シーツの上で強張る指。押し殺された呼吸だとか、逸らされたままの横顔、強く閉じられた目蓋。記憶は鮮明でも平時の印象は重ならない。ローテーブルを挟んで向かい側、ロベルトは手元に視線を落としている佐野をぼんやりと眺めた。たまに考えるように脇へ視点が流れる以外は、紙の上を筆記具の滑る音が続いていく。
 佐野が使っている部屋は集会場の中でも然程広くはない。本棚とパイプベッドがあるだけの殺風景なものだ。ここへ来たばかりの頃希望を聞いたときに、長居をするつもりはないからどうでも構わないと返されたので、ロベルトは笑顔で自室の隣を指定してやった。佐野を取り込んだ遊びは特別だったから、その程度の受け答えは反意にも数えない、所詮想定のうちだった。失言を悟った佐野の顔はわかりやすく、存分にロベルトを満足させた。
 行末を区切るようにとん、とペン先を置いて、そこで溜息にも似た吐息が落ちる。投げ遣りに声を出した佐野の表情はさして明るくないが別段陰を帯びてもいなかった。情景だけなら穏やかにも見える。訝しげに目線を上げられてようやく、ロベルトは佐野に呼びかけられたのだと気付く。目が合ったことは意外だったのか、一瞬顰められた表情はすぐにまた下へ落とされた。置かれていたノートが回転され、細いペン先が指し示すように添えられる。
「……ここな、」
 予め引かれてある罫線から少しはみ出た数式をたどりながら、気のない声でそこへ当て嵌める公式の説明が響いていく。片肘をついて一頻り文字を追ってはみたが、元よりロベルトの関心はそこにない。やり終えるつもりもなく投げ出されていた課題は、佐野の自由時間を拘束する口実に思いついて持ち出しただけだった。ロベルトが部屋を訪れるまで佐野が読んでいたらしい本は、今は開いたままベッドの上へ放られている。栞を挟んでもいなかったページは多分捲れて変わってしまっただろう。言葉へは適当に相槌を打ちながら、集中しなければ意味を持たない、数字と記号の羅列にすぎない文字列から目を上げて、ロベルトは目の前の佐野を見る。
 夕刻の、開け放たれた窓から吹き込んでくる風が時折髪をそよがせる。手拭いの上からも目の端に落ちている先が、視線を誘うように揺れている。色の印象よりもやわらかい、汗に湿ったときのしっとりと絡む感触をまだ指が覚えている。ほとんど無意識に手を上げようとして、ロベルトは寸前で思いとどまった。目を伏せて、低く抑えられた佐野の声は続いている。側に手を伸ばすだけでも、弾かれたように強張る表情を思い描くのは容易かった。怯むのは惰弱だとでも言わんばかりに険しい眼差しと、記憶の中で追い詰められて揺らぐ声音。
「聞いとらんやろ」
 溜息混じりに呟かれて、そんなことないよ、と答える。思いのほか優しく響いた自分の声にロベルトは幾許か動揺したが、それは億尾にも出さなかった。わざとらしく笑顔を作れば、諦めたような表情でまた佐野の視線は手元へと戻る。冷めているけれど険を含んでもいない、再開された声の響きだけを今度は目を閉じて聞いた。

TITLE:変則的な感情
loca:あいうえお44題