目を開けていても幻に目を塞がれる瞬間がある。光の加減だとかふとした出来事から連想されて、その度に何度でも、現実との相違を否応なく突きつけられる。いまだ鮮明な別れの記憶には、親しんだ日々よりも、地獄からの光に照らされて微笑む儚い印象ばかりが上書きされていく。
 震えそうになる息を飲み込んで、無理にでも顔を上げる。自分に宛がわれている病室へ戻ってきて、引き戸になっている扉を開ける。すでに何度も繰り返してきた動作に佐野が手を止めてしまったのは、開け放たれた窓から入り込んでくる日差しに目を射られた為ばかりではなかった。
 視界の先で、窓際に立った人影は殊更にゆっくりとこちらを振り仰いでみせた。風に煽られたカーテンが大きく揺れている。同じく金の髪もだ。姿を見れば身構えてしまうのは反射的な反応で、車輪へかけていた佐野の手は不自然に強張り、車椅子のどこかが軋んだ音を立てた。
「遅かったね」
 静かな声で、ロベルトは窓の外へまた視線を投げる。先程鈴子と見送ったばかりの、植木と森の後ろ姿がまだ近くに見えるはずだった。
「…何しに来たんや」
 確かな方向へ向けられる眼差しを見止め、声は硬くなる。二次選考までは一時休戦と伝えられ中断された、先だってのバトルでロベルトに手酷く傷つけられた身体は、未だに補助無く歩くことを制限されている。元より対等に渡りあえないとしても、現状をおもえば胸の奥が冷えていく。けれど焦燥を含んだ佐野の表情を振り返りはせず、今気付いたとでもいうようにロベルトの腕はなびくカーテンの布地を押さえるように掴んだ。窓は開いたままだというのに、閉ざすように一息に引かれれば外界を遮った布はそれだけでぴくりとも動かなくなる。
「遊びに来たんだ」
 とてもそうとは聞こえない声音でロベルトは続けた。まだ開いたままの扉へも視線を向けて、入ってすぐの位置で動きを止めたままの佐野の脇を通り、引き戸も閉めてしまう。理想を現実に変える、ロベルトの無機物に対しての支配は圧倒的だ。能力を使ったのだろうとは確かめずとも確信があった。
「君に、言い忘れたことがあって」
 近い声には、距離を取るように強張った腕を動かしていた。持ち前の運動神経で使い方はすでに馴染んでいたが、動揺で車輪を滑らせ過ぎてしまう。危うくベッドサイドの布地に突っ込みそうになって、伸ばされた腕に止められた。
「――まだ、傷も治ってないのに、」
 言いさして、固定してつられた佐野の腕、厳重に巻かれた包帯に後方から触れる。
「気をつけないと、悪化しちゃうよ」
 労わるような口調ですぐ傍から声が続く。腕が動かないのは能力を使われたからか、元からそれだけの余力はなかったのか判断がつかなかった。傷からの熱もまだ下がりきってはいないのだ。集中しようとしても上手く思考が回らない。能力は使えるが、手持ちの手ぬぐいは額に巻かれているものだけだった。その上片手をそちらに回せば移動はできなくなる。
「隣のベッドは空いてるの?」
 ロベルトはまるで見舞いに訪れたかのような口ぶりで尋ねてくる。強制された立ち位置も、十団では黙して受け入れてきた。けれども人質はもういない。犬丸は、佐野の為に地獄へ落ちた。犬丸を犠牲にして、佐野はロベルト十団から解放された。
 ロベルトの境遇を知っても同情ばかりは抱けなかった。能力の限定条件のことも同じことだ。僅かにでも力を込めれば腕には痛みが走る。植木がくれた可能性。敗北しない限り、まだ犬丸を助ける希望は残されている。植木は、ロベルトを哀しいと言った。
「……お前に、関係ないやろ」
「そうでもないんじゃないかな」
 ささやき声。身構えて顔を上げる前に激しい衝撃が佐野の全身を貫いていた。横倒しになった車椅子の車輪がからからと乾いた音を立てている。床に投げ出された身体の、特に強く叩きつけられた腕が動かない。治癒しきってはいなかった肋骨までも圧迫されて、吐き出した息にも痛みが駆け抜けた。
「…っ、は……」
「佐野くんだって、他の人を巻き込むのは嫌なんでしょ」
 一撃でも返そうとした左腕は無理な体勢に捻り上げられて、悲鳴は音にもならなかった。肺には空気がなかった。わずかに首をかしげて見下ろしてくるロベルトの表情は気遣わしげにさえ見えた。助け起こす為に差し伸べるような自然さで、指先が目前に伸びてくる。
「それとも、仲間を呼んでみる? ここからでも――植木くんになら声が届くかもしれない」
 平坦な口調で続けて、静かに目線を向けられる。見上げた視界の端に広がる白い天井は、閉塞された集会場の部屋で見つめ続けたそれと似ているようにもおもえた。律儀に統制された、箱庭の世界。交換条件で予め約された忠誠と、数を重ねても上滑りしていくばかりの言葉。憎しみにちかい感情が確かにあった。けれども、間近で薄らと赤い光を帯びるロベルトの手のひらを見つめながら、佐野はそのときとっさに返す言葉を見つけられなかった。
 思考を振り払うように閉ざした目蓋の向こう側で、光と力の奔流があえかな熱を持つ。佐野の腕を押さえたロベルトの指がわずかに強張り、かすかな呼気が落ちる。鈴子と二人がかりでもロベルトの神器には歯が立たなかった。佐野自身とロベルトの強さには絶望的な差があった。誘発されて浮かんだ記憶に、佐野は掠れた声をようやく絞り出した。
「…………裏切り者て」
「え?」
「あのとき、言うたな」
 犬丸が地獄に落ちた後、植木に加勢して交戦したとき。人質が失われ、佐野が十団でいる理由はなくなった。そうなることは、ロベルトもわかっていたはずだ。
「どうしてほしかったんや」
 十団として過ごした時間、内実の伴わない会話を思い返してもそこには何も見つけられない。咽喉からはほとんど掠れた息だけが漏れる。刹那空気を割いて響いた音に佐野が目を開けば、真っ向からロベルトと視線がかちあった。向けられていた腕は頬の一寸脇に逸らされ、神器に変形した腕の鋭角な先端はリノリウムの床を抉っていた。
「――死んでほしかったよ」
 変わらない声のまま、ロベルトは表情なく佐野を見つめた。その目が一瞬二重に重なって見えて、佐野は目を細めた。視覚がとらえたものを認識しようとしたときに、わずかにその色が揺らいでぶれたように見えたのだ。口許をかすかに歪め、ロベルトが目線を落として立ち上がる。その動きを佐野は視線だけで追った。
 窓の、先ほど引き閉めたカーテンへ指を伸ばし、再度ロベルトが触れれば途端布地がたわんで風が吹き込んでくる。なびくその端を押さえてロベルトが振り返る。斜めに西日を浴びた表情は逆光で、佐野からは見えなかった。
「それじゃあ佐野くん。……またね」
 いつもと変わらない口ぶりで告げて窓の向こうへと身を翻す。風に外へと流れたカーテンを見つめる。佐野は息を吸いこんだ。そしてそれを吐き出すのと一緒に、腕を押さえて身体を折り曲げる。
 誰かが来るまでに状況を取り繕おうにも、これでは起き上がるまでがそもそも相当困難だろう。痛みに漏れそうになる声を抑え、憂鬱に佐野は目蓋を下ろす。翳された光がわずかにちらついて消えていくのが、遮られた視界にいつまでも残像のように残っていた。

TITLE:もうおしまい
loca:あいうえお44題