かろん、軽やかに歩く音を響かせて君は僕の一歩前を行く。黒髪はまだ少し濡れていて、さやさやと吹き付けてくる風にも遊ばない。額に巻かれて落とされた、白い手ぬぐいの端だけが揺れている。


 佐野くんがいつも浴衣で楽しそうに向かう先。一度も行ったことがないといったら、佐野くんは手を引く勢いで僕を連れてきてくれた。
 青いタイルの壁に、小さな石を敷き詰めたみたいな床。夕飯前の時間は大抵すいているのだそうで、銭湯としては手狭なほうらしい湯船も二人で使うには広すぎるくらいだった。佐野くんは慣れた様子でプラスチック製の椅子と木桶を二つ持って、洗い場へ並べて置いてくれる。
「誰もおらんでラッキーやったな」
 嬉しそうに笑う君は、いつもより相応に子どもらしく見えて、僕を少し落ち着かない気持ちにさせる。知っていたはずの君の年齢と、これから君に強いることになるだろう日々を思わせる。
 与えた能力を使って、他の能力者と戦って、百人の中を勝ち抜いてほしい。空白の才が悪意を持った誰かに悪用されないように――。君と出会って、君の正義を見込んで、僕が願った。それなのに、地上に降りてきた当初抱いていたそんな危惧よりも、この先バトルで君が負っていくかもしれない傷のほうが今は怖いのだといったら、君は笑うだろうか。
 人間の身体は、僕ら天界人よりもずっと傷つきやすい。知識で知っていても、君と知り合うまで実感はなかったことだった。能力を使いこなす為の特訓でも、佐野くんが僕に見せてくれる成果はいつでも目覚しかった。それだけ真剣に向き合ってくれていることに、僕はただ感謝するべきなのかもしれないけれど。
「――腕、まだ痕が残ってますね」
「かすり傷やし、もう乾いとるやろ」
 桶で頭から湯をかぶっていた手を止めて、佐野くんの声が返る。濡れて張り付いた髪の先から、目に入りそうに湯が滴っていく。安心させるように傷のあった左手を振られて、僕はとっさにそれを押さえた。
「でも、怪我は怪我です」
 僕と知り合うことがなかったら、負うはずのなかった痛み。たとえば、こんなふうに割かれるはずのなかった時間。担当神候補として君を選んだ僕が君から奪っていくものは、これからも増えていく。――掴んだ腕は、僕の手でも握り絞めてしまえるくらい、子どもの細さなのに。
「まだ日あるやろ? 感覚も掴めてきたしな、同じ失敗はせんから、大丈夫や」
「……君が誰かに負けるなんて思ってません。ただ、勝つためなら無茶もするんじゃないかって、心配なんです」
 濡れた前髪を右手で押さえて、佐野くんは僕を見る。普段は半分くらい隠されている、今は剥き出しにさらされた火傷の痕に、左右を分けて縁取られた目が僕の目にじっと合わされる。
「――まあ、そやな。怪我せんって約束はできんけど。もっと強うならなあかんな」
 納得したような声音で、佐野くんはそんなことを言う。人の悪い笑顔を浮かべて、僕を見ながら片目をつぶる。
「ワンコは信じて、上からおれを見とってくれたらええんや。そやろ?」
 苦笑して僕が緩ませた手の中から君の腕が抜けていく。流し終えた髪の上、洗う間は外していた手ぬぐいをすぐに当てて、佐野くんは慣れた手つきで額へ結んでいく。その横顔を、僕は見ていた。


「けど、変わらんもんやな」
 声に顔を上げると、佐野くんが足を止めて振り向いていた。促すように手招かれて、横へ並ぶ。
「何がですか?」
 一人で歩くときとは違う、君が僕と歩くときの少し遅められた足取りも、僕はもう覚えてしまった。
「天界人言うても、同じに見えたわ」
 見返せば、しみじみとした口ぶりで佐野くんは言った。目は楽しそうに笑っている。
「……それは、そうなんじゃないかな。能力を抜かしたら、天界人って言っても、あとはいくらか丈夫なくらいで」
「まあ、その能力がそもそもすごいと思うんやけど。何かを別のものに変える――言うんはみんな同じなんか?」
「基本はそう、だね。あとは、――そうだ、神器があります」
「神器?」
 首を傾げられて、そういえば話したことがなかったと気付く。使う機会がなければ普段は意識もしないけれど、身体の一部を変質させるのだから、あるいは神器のほうが能力よりも人には異質かもしれない。
「うん。手から大砲みたいに鉄球を撃てたりね。生まれつき備わっているわけじゃないけど、早く移動できたり、空を飛べる力もあるんだ。これは結構、便利かな」
「はー。それ全部、ワンコも使えるんか」
「……ええと、一応、は」
 僕が言いよどむと、佐野くんはおかしそうに僕を見上げる。
「なんや一応て。――けど、空も飛べるんか。いつも高いとこにおるわけやなぁ」
 太陽が地平線に近づいて、鮮やかに色を変えていく。夕暮れの空を振り仰ぎながら、素直に感嘆が込められた声に、言葉が口をついて出ていた。
「じゃあ今度、佐野くんも一緒に飛んでみますか?」
「…………一緒に、て」
「佐野くんに肩に捉まってもらって、僕が腕で支える体勢とかなら、僕でも多分なんとかなるんじゃないかと……」
 ぽかんと見開かれた佐野くんの目に、僕は慌てて言い募る。佐野くんはしばらく僕を見つめた後、目を細めた。
「ワンコそない体力ないやろ。心配や」
「だ、大丈夫です。君を落としたりはしません!」
 とっさに両手に力を込めて返せば、からかう表情から目を開かせる。それから、佐野くんはおかしそうに笑った。
「ほんなら、今度、な」
「はい」
 太陽に光を向けられたみたいに、ひどくあたたかい心地で、僕は微笑み返した。


 染まっていく空に照らされて、視界は一面に赤かった。並んで歩いていく道の先も、どこまでも。初めて見るわけでもない、この先も何度も目にするだろう光景なのに、それをなぜだか、そのとき僕はとても尊いことのように感じていた。

TITLE:この道の先には
loca:あいうえお44題