――それは、一人暮らしの常というもので。


 時間に追われていく傍ら、手を抜ける家事といったら筆頭に上がるのは多分食事だろう。幸いなことに、男子厨房に入るべからず、なんて時代錯誤な意識はない家だったので、生きていくのに必要不可欠なスキルは仕込まれていた。だからこれは、同級の友人が抱えているような技術的な問題とは、また別の認識として。
 大人になれば時間がなくなるから今のうちに遊んでおけとは教師の言だが、学生生活も課題にバイトにと追われていればこれでなかなか忙しい。要領が悪いほうではないから、削れるものは削っていく過程で、誰にも迷惑をかけない部分での選択としては、そうなるのは当然な成り行きだと思う。
 ちょうど温めている途中だった、まだ鍋をいっぱいに占領しているのは何日かこれで済ませるつもりで作り置きしたカレーだった。もう少し暑い季節になってくれば冷凍せざるを得ないが、この時期は日に一度火にかければまだ数日はもつ。チャイムの音にコンロを止めてインターホンを取るまで、佐野はグラスに注いだ牛乳を片手に、半ば義務的に鍋をかき混ぜていたところだった。
「佐野くん、」
 よかった。もし時間があるようだったら、今いいですか。新聞の勧誘やらアンケートやら、適当に流すつもりで耳に当てた受話器の向こうから聞こえてきた声に、思考が追いつくよりも先に、何も答えずに玄関へ急いでいた。正しく置き損ねた受話器が床にぶつかる音がする。ノブに手をかけて引き開ける。
「――こんにちは」
 扉の勢いに数瞬目を丸くした犬丸は、佐野を見て、それから目を細めて笑った。会いたかったです。佐野くん。朝方の、眩しいくらいの日差しと温められた空気が、犬丸の声と一緒に室内へ直接入り込んでくる。にこにこと笑顔を浮かべたままで告げられる言葉。どれだけぶりだかわからないくらい会えずにいたのに、犬丸の様子はまるで変わりがない。一歩外の距離のままでいる相手へ手を伸ばして、確かめるように腕を引けば犬丸は大人しくそれに続く。
「……何かあったんか?」
 玄関へ踏み込んだ犬丸の後ろで扉が閉まる。少し暗くなった視界で見つめる。まだ陽が上がりきってさえいないのだ。前触れのない状況には一頻り動揺に見舞われていたものの、佐野の内心は声には出なかった。
「何かないと、会いに来ちゃだめですか?」
 少し首を傾げて、真摯な口ぶりで問われても視線は優しく細められたままだ。そんな訳あらへんやろ。苦笑して返しながらも、ずっと近くで直視し続けるにはおもはゆすぎる表情だった。誤魔化しきれなくなる前に、奥へ促す仕草でどうにか目線をずらす。
「……料理してたところだった?」
 靴を落として、揃えていた顔がふと持ち上がって、見上げられる。意識してみれば、換気扇を回してはいても、わかりやすい匂いが部屋に漂っているのだろうと気付いた。とは言え。
「ごめん。邪魔しちゃったかな」
 微笑んだままそんなふうに続けてくるので、佐野は否定の代わりに頭の上から見慣れた帽子を奪ってやった。もう片方の手で薄い色の髪をぐしゃぐしゃと好き勝手に混ぜて、その惨状にかぶせる形で戻す。
「え、佐野くん……?」
 戸惑う声を置き去りにして室内へ向かい、落ちていた受話器を拾って壁へと戻す。一呼吸。慌てて追いかけてきた犬丸のほうへ向き直って、じっと見つめてくる大きな目を見返した。
「ワンコ、飯は?」
「え?」
「まだやったら、なんか買うてきたるわ」
 取り繕う代わりに無難な会話を振って、失敗に気付いたのはその後だった。……それこそ、花が咲くような。
「……カレー、は?」
 笑いながら訊ねられて、多分引き攣れている表情でそれにはどうにか首を振る。
「あれは、自分用やから適当なんや。来るって知っとったら、もうちょっとマシなもん作っといたんやけど」
「ぼくは、佐野くんの手作りのほうが食べたいな」
 何気ない所作で腕に触れられる。そっと覗き込まれて、避けようと俯いていくうちに、とうとう佐野は顔が上げられなくなった。


 勘弁してくれ。


 助けを求めようにも縋るべき神様は目の前だ。犬丸の肩を片手で押さえたまま、口を開けば何かを口走ってしまいそうなのをかろうじて押さえ込む。震えかけた息で、犬丸、と呼びかける。
 この状況では何にせよ糖分過多だ。甘すぎる。親友だというならせめて、――どうか。

TITLE:塩味カレーライス
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