夢の中に隠れた、笑顔がまだ目に残っている。
 
 佐野は目蓋を押し上げて天井を見上げた。まだ夜で、室内は暗い。カーテンの隙間から差し込むわずかな光が、壁から天井へ細い線を落としている。
 十団の集会場で与えられた部屋、飾り気なく真白い壁に必要最低限の荷物。服など適当に詰めてきたダンボールからは未だ出さずにいるもののほうが多いくらいで、今もそのまま床に置かれている。
 
 助けられるとは、思っているのだ。届くまでに、足りないものは己の努力で補えるはずだと信じている。一方的に提示された条件が約束なら、自分自身に課したものはすでに誓いだった。
 天界からやってきた神候補が、自分の中に一時確かに信じてくれたものを、せめてそれだけは守り続けていられるように。短い間でも、それに値するだけの思いはすでにもらってきた。
 ただ、こうして夢から覚めた後の喪失感はひどかった。確かめるように瞬かせた視界の中に見た指は固く力が込められていて、実際、布に埋められた爪は痛みを発していた。
 いずれ助けられるのだから、心にかかることなどないと思いながら、なかなか深い睡眠を取れないでいる。持ち上げた片腕を遮るように目蓋にのせて、動けずにいた。離れてから、思い出すことはたくさんあった。
 
「――ああ、起きてたんだ」
 前起きなく扉を開けられて、ずらした腕の下から目線を向ける。扉の先、背後の廊下も照明は落とされたままだった。薄闇の中で、作ったような笑顔を向けられる。目線へ力を込めて、壁に背をつけるように身体を起こす。
「ひどいな、そんなに嫌そうな顔しないでよ」
 気さくさを装ったロベルトの声が、わざとらしく苦笑を含んでささやく。移動の足音はしなかった。親しい友人の部屋を訪ねたような気安さで近づいて、ほとんど音も立てずにベッドの端に腰掛けて視線を向けてくる。
「佐野くんも眠れないの? ――嫌な夢でも見た?」
「答えなあかんのか」
 躊躇なく踏み込まれて、声が強ばるのを自覚していた。ロベルトは軽く頸を傾ぐ。気分を害した風ではなく、何かを考えるような表情で一度目蓋を閉じる。
「ううん。――佐野くんは、好きにしていいんだ」
 君は、特別だから。
 以前続けた口ぶりを真似るようにして、腕を伸ばされた。立てた片膝に置いた腕に触れる直前で指先が止まり、笑う気配でその目が伏せられる。
「佐野くんは、子供の頃のことを覚えてる?」
 静かな声で続けられて、怪訝に見返す。不本意でも、脈絡のない言動にはすでに慣れてしまった。答えられる範囲で無難に返しておけば表面上は平穏に過ぎる。ただ、漠然とし過ぎていては会話の流れを予想することもできない。
「思い出したことがあって」
 顔を俯かせたまま、ロベルトが呟く。返答を期待してはいなかったのか、ひとり言を続けるような口ぶりだった。
「昔ね、眠れないときにしてしまう癖があったんだ」
 懐かしむというでもない、ロベルトは笑ったようだった。
「小さな頃はいろんな場所を転々としたけど、よくは覚えてないんだ。どこにいても大差なかった。ただ、いつもひどく冷え込んでいた気がする」
 淡々とした抑揚を一度途切らせ、下げたままの目線がゆっくりと瞬く。
「――早くに明りは消されるから、部屋はいつも暗かった。目に見えるよりももっと暗いんだ。外からは窓を震わせて、煩いくらいに風の音が聞こえる。それが一晩中続く」
 君には想像もできないかもしれないけど、と声だけがいつものように笑う。
「そういうとき、僕はシーツに片耳を押し付けて、右手で右の耳を塞いで、毛布のなかに左手だけをもぐらせてた。それでしばらくそのままでいる。そのうちに、身体は冷えてしまうけど、片手だけ温まる。そうしてから、毛布に潜り込んで、右手を握るんだ」
 目蓋を閉じれば、困ったように眉を寄せては優しく笑っていた淡い眼差しが散らつく。躊躇いがちに、いつでも差し伸ばされていた温かな手のひらが浮かぶ。季節は夏なのに、吐き出される息が白く見えるような気さえする情景の中で。
「両手の温度が違っているから、そうすれば、誰かに手をつないでもらったような気持ちになれた」
 ささやきを終えるように、ロベルトの白い指が手首に絡まっていた。視線は手元に落としたままで、開かれている窓からの微風に細い金髪が目の前で揺れている。力を込められてはいない。
「僕も忘れていたくらい、ずっと昔の話だよ」
 手の上に手が触れて、指を折り込まれたときにも。振り解こうと思えばできる、その程度の強さだったのに。
「……ただ、それで、手をつないでみたくなったんだ」
 冷えた指を離されるまで、手を動かすことができなかった、――これは裏切りだろうか。

TITLE:何かが零れ落ちた音が木霊する。
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