季節や国、地域が違うだけでもかなり気温差がある。先に地上へ降りていた小林へ、人間界はどんなところですか、と犬丸が聞いたときに返された言葉だ。聞きたかったのは多分もっと別の言葉で、でも会話の返答として外れていたわけでもなかったから、はぐらかされたようでもその話題はそれ以上続かなかった。
 天界では、確かに何処にいてもあまり温度差はない。花鳥風月を使っているときに高度を上げれば冷えもするが、普段はそれも然程意識しない。そもそも天界人と人間では体感温度が違うらしい、と気づいたのは、実際に降りて近い場所で人と接するようになってからで――犬丸にとっては、佐野と知り合ってからと言い変えてしまっても変わりない。
 吐く息の白さだとか、吹き付ける風に頸を竦める仕草。遠くからでも、目を細めてコートのポケットに押し込んでいた手を上げてくれる彼の、薄赤く冷えた頬の色。それらは視覚へ直接的に訴えかける寒々しさで、心配になって訊ねたら「お前もおんなじやで」と呆れたように笑われてしまった記憶がある。無意識に伸ばしかけていた腕の動きに気づいて、戸惑っていたのは犬丸だけで、佐野は数歩先の距離から犬丸を振り返る――見ているだけで胸が温かくなる、いつもの笑顔で。
 熱に茹だっているときの思考なんて得てして脈絡がない――ということを、犬丸は久方ぶりに体験している。前に寝付いてしまったのがどれくらい前だったかも思い出せない。ずっと子どもの頃だったような気もする。それくらい、もう随分馴染みがない感覚だった。
 手足が少しだけ痺れたような倦怠感と、頭に鈍く響くような痛み。早々に横になったのは正解で、布団に潜り込んでから思い出したように寒さが這い登ってきた。会う約束をしていた小林にはどうにか断りのメールを送って、犬丸がはっきりと意識を保てていたのはそこまでだった。まどろみの中をうつらうつらとしながら、後はいろいろなことが浮かんでは途切れての繰り返しだ。
 ――見つけることができて、安心したのかもしれない、と思う。元々神になることを目標にしていたわけではなくても、神候補に選ばれた以上気負いはある。飄々としているようでも、それはあの人だって同じはずだ。
 今はまだ、百に枝分かれした選択肢の一つに過ぎない。それでもこれから、僕らが選んだ能力者の一挙一動が空白の才と神の座の行く末に関わっていく。
 優勝することはなくても、それに相応しい先を選ぶ後押しができればと思っていた。そんな考え方が出来なくなってしまったのはいつだったろう。
 優しくて、強い――僕を押しとどめて、火事の中へ迷わずに飛び込んでいった彼の、白い背中を見たときだったろうか。舞い散る火の粉と充満していく煙の中でも一際鮮烈で、見失いようがなかった。この子を失ったら、もう何処にも代わりなんていない。確信は胸を焦がす強さで、外へと向かう間も、炎に照らし出された姿から目を離すことはできなかった。
 取り止めのない思考はもう何度目か、気がつけばそのたびに佐野へと戻っていて、自分でも少しおかしい。けれども、考えてみれば普段だってそう変わりはないのかもしれない。
 稲穂中の、佐野清一郎。才数や身体能力などの数値的な側面もあって、彼に注目していたのは犬丸だけではなかったから、まだバトルが始まっていない今の時点でも彼の前評判はかなりのものだった。それでも、それだって本当の本物の彼には到底及ばない。
 目蓋を閉じていても思い描ける。ぼんやりと目を開けたら目の前に佐野が見えて、眩しい日差しに触れたように、犬丸は目を細めてしまう。
「お、起きたか」
 犬丸の顔を覗き込んで、上から佐野の指が伸びてくる。確かめるみたいにゆっくり瞬きをしてみても、前髪を払われる感触も彼の姿もそのままそこにある。
「……佐野くん?」
「おう」
「あれ? なんで……」
「ワンコ今日なんや用事ある言うとったやろ? たまにはおれが待ち伏せしてみよかな思てな」
「まちぶせ…」
「びっくりしたで。来てみたら鍵は開いとるし、ワンコは寝込んどるし、えらい熱やし」
「…すみません」
「謝らんでも、今日は鍵開いとって助かったわ」
 言いながら濡れたタオルを持ち上げられて、初めて額に乗せられていたことに気づいた。タオルは洗面器の中に入れられて、空いた額に今度は佐野の手が当てられる。少しひんやりしていて、触れられる感触は気持ちがよかった。
「――少しは下がったみたいやな」
 目を閉じると、指先で軽く額を撫でられた。佐野くんの手が冷たいというよりは、僕が熱いのかもしれない。そのまま目を閉じていたら、またすぐにでも睡魔に落ちてしまえそうな心地よさだ。
「ワンコ、まだ寝たらあかんで。薬飲んでからな」
 察したように言われて、薬の買い置きなんかあったかな……と紗のかかったような思考で思う。人間界で当面生活していく為にと思いながら、バトルに備えて傷薬や包帯を買い揃えた記憶はあった。口にする前に、犬丸の額から一度手を離して、佐野が床に置かれていたビニール袋を引いた。それからまた、所在なく追いかけた犬丸の視線に気づいてか、ぺたりと手を戻してくれる。
「買いに行こうと思てたらワンコにお客さんが来てな、差し入れやって」
「おきゃくさん、」
 人間界での知り合いなんて彼の他にはいないし、天界人でも、―― 一人しか思い浮かばない。理由までは送らなかったけど、察しのいい人だから様子を見に来てくれたんだろうか。普段はいろいろと適当な人なのに、こういうときの優しさは、正直とても嬉しいけど。
「名前は、言わんでもわかる言うとったけど」
「――はい、多分…小林さんじゃないかと」
「天界の――ワンコの友達やったっけ」
「と、友達というかなんというか……尊敬している人です」
「ああ――、せやったな。ワンコが呼んだんやったら帰ろう思たんやけど、これだけ置いてくつもりやったから言うて、すぐ帰ってしもてな。……なんや悪いことしたな」
「それは、ぜんぜん、…小林さんにはいつでも会えますし、佐野くんがいてくれて僕は嬉しいです」
「おれともほとんど毎日会っとるやん」
「でも今日は君に会えないと思ってたから――。あの、それより佐野くん、もしかしてそのとき何か言われました…?」
「あー……、おれの名前知っとってびっくりしたわ」
 少し苦笑して、佐野の指が軽く犬丸の額をつつく。
 それって……
(何か言ったんですね、小林さん……)
 人の悪い表情で笑っている様子まで見たように思い浮かぶ。ううと沈没しかけたところで、それよりも、犬丸はもっと大事なことに気づいた。
「――っていうか、佐野くん、ダメです!」
「ん?」
「風邪が君にうつったら困るので、今日は、帰ってください…」
「なんや、そんなことか。心配ないでワンコ。人間界には子どもは風の子って言葉があってな」
「……どういう意味ですか?」
 聞いたことはあったかもしれないが意味までは浮かばない。頸を傾げると、目をじっと合わされた。目を逸らしがたいのは変わりがないけど、いつもの意思の強さよりも、虹彩の印象が残るような――確かめるみたいに、思わず見入ってしまう。
「つまりな――人間界の子どもは、風邪をひかんのや」
「え? そうなんですか?」
 驚いて見上げると、佐野は至極真面目な表情で頷く。
「ああ、そうや」
「し、知りませんでした…」
 笑いながら、額に乗せられていた佐野の手が離れて、袋から薬の箱とペットボトルを取り出す。起きれるかと聞かれて、上体を起こそうとしたら背中へ腕を差し入れられた。助け起こすように支えて、犬丸の背をベッドの端へ預けたところでまた手が離れる。
「ほい。まずは水分補給な」
 手渡された中身はスポーツドリンクで、促されるまま口をつけてから、犬丸は随分と喉が渇いていたらしいと気づいた。飲んだ端から滲み渡っていくみたいだ。佐野は洗面器に浸していたタオルに手を伸ばしかけて、思い出したようにそれを止めた。そういえばさっきからずっと片手しか使っていないように見える。
 もしかして怪我でもしてそれを隠しているのかと思い当たって、床に下ろされた佐野の左手の行方を視線で追っていったら、ベッドから落ちていた自分の左手に行き着いて、そこで一瞬犬丸の思考が止まった。動かせないはずだ。手の中へ握りこむようにして、佐野の指をしっかりと自分の手が捕まえている。
「――、ッ!」
 驚いて手を開くと、佐野が振り向いた。
「お、…もうええの?」
 手の上に片手を重ねられたままで、空になっていたペットボトルを奪われる。おかしそうに目を細めて、――含みのある笑顔だ。
「…さ、佐野くん――僕、いつから――」
「その、小林…さんがおったときや。片手だけ布団から出とったから、戻そうとしたときにな」
「……小林さんが、いたとき…」
「具合悪いときのワンコの癖やって言うし、それでワンコが落ち着くんやったら、まあええかなーて」
「――! そ、」
 ――そんな癖、断じてないです、と言えないのはこの場合、自信がなかったわけではなくて。
「そない落ち込まんでも、片手くらいいくらでも貸したるで?」
 楽しげに笑いながら、触れていた手が離れて、ぬくもりが離れる。体温が同じになるくらいまで――の時間。考えかけて、目元を押さえて俯いたら、冷たく水を絞られたタオルが額に触れた。
 受け取れば佐野は立ち上がって、今度はコップに水を注いできたものと錠剤の薬を渡される。何の味もわからないまま飲み込むと、手の中のタオルをまた額に乗せられた。片手で前髪を掻きあげられて、いたずらっぽく片目を閉じた表情に、距離の近さのせいにしても勝手に心臓は跳ねる。
「おかゆ作ったるから、寝ててええよ」
 どこまでが無意識で許される範囲だろうか。後々からかわれるに違いないことを思えば気鬱なはずなのに、熱のせいか思考は浮ついてうまくまとまろうとしない。犬丸の目は意識しなくてもまた佐野の背を追った。

TITLE:僕にとっての流れ星
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