――こんなのは、おかしい。


 すでに胸中何度も繰り返した言葉は、現状の心境そのままだった。床に直接敷かれた布団の感覚だとか、手を伸ばせば指先に触れる畳の感触は、全くもってロベルトに馴染みのないものだ。部屋の照明はすでに落とされている。窓にかかったカーテンは半端に開いたままで、そこから入り込んでくる月の光でわずかに視界は保たれていた。薄い天井の木目をぼんやりと見上げながら、そっと息を漏らす。落ち着かない心地がするのは、何もここが初めて訪れた場所だからではなかった。やわらかい枕はいくらかみじろいでも音を立てない。ロベルトはゆっくりと、顔をほんの少し左に傾けてみる。
 手のひら一つ分くらいの間をどうにか開けて、敷布団を二つも広げてしまえば部屋はそれで占領されてしまった。同じように横へ並べられた片方には佐野が眠っている。ここは人間界で、いうなれば佐野の部屋なので、それは別段不自然なことではない。
 うかがうように視線を向けながら、息を止めていた。目を閉じた佐野の顔は横向いて枕に埋もれていて、半分くらい隠れている。そうでなくても暗いのでつぶさに見えるわけでもないが、眠っている佐野の表情は静かで、穏やかに見えた。そう見えるような気がする、その程度でも。まるで、……普通、の。




 人間界の視察。そんな名目を与えられて、ロベルトは随分と久方ぶりに人間界の地上へ降りた。不定期に行われているらしいそれは、けれども今回に限ってはほとんど口実に過ぎなかっただろう。
 訪れることを禁止されていたわけではなかった。ただ、元々自由に行き来できるものでもないと知らされてから、自分から申請することもしなかった。物心ついたときからこの歳になるまでずっと過ごしてきた場所なのに、後にしてきたことへの郷愁や執着は胸のどこにも残らなかった。かつて抱いていた強い憎しみも、それを向ける確かな対象を一度見失ってしまえば、後は空白だった。


 人間のことを考えようとすれば、別れ際に躊躇いなく向けられた笑顔を思い出した。植木くん。身勝手な理由で天界から地上へ落とされた、ただ一人同じ立場の子どもだった。かつて、彼は自分は人間だとロベルトに言った。そう思って生きてきたから、たとえ身体は天界人でも、人間としてロベルトに相対する。どれだけ力の差があっても、人間を否定するロベルトから逃げるわけにはいかないのだと。
 戦闘の最中、崩れ落ちてきた瓦礫から自分を庇って、傷ついた姿もはっきりと覚えている。恩を着せるでもなく、当然な行動の素振りで。そんな行為は、あの頃のロベルトには到底認めがたかった。何の打算もなく――、そんな人間は決しているはずがなかったからだ。だから心の奥で彼の強さは認めても、――いくら人間の側に立ってはいても、だって君は僕と同じ――天界人だ。そう、どこかで思っていた気がする。
 なんの翳りもない、親しい友人に見せるみたいな、優しい表情。名前で呼びかけて、ロベルトの気持ちが変わったことが嬉しいと笑ってくれた。人間や天界人なんて関係なく、あんなふうに笑える強さを、それまでロベルトは知らなかった。
 アノンと戦う前に、ロベルトが人間を消してしまうことへ躊躇いを抱いた理由。人間への憎しみを原動力にしていたロベルトの魔王が、力を失ってしまった理由。
 ――今は、彼の言葉を否定する気はロベルトにはない。彼が自分は人間だと言うのならそれでいい。ただ、そういった記憶を思い返しながら思い出したことがあった。
 信じがたいと思うような、これまでロベルトが知っていた人間なら決して言わなかったような言葉をぶつけてきたのは、あのとき彼一人だけではなかった。
 一人は向き合って、あのバトルを終えた直後に二人きりで言葉を交わす機会があった。意識が途切れるに至った原因は今も把握していないが、自らの過去の言動を思えば自業自得なのだろうと思う。
 それから、もう一人。住所は飛び立つ間際に教えられていた。もし訊ねる余裕があったら、よければ近況を知らせてほしい。元より目的地も定められてはいないのに、数枚の書類と一緒に手渡して、微笑みを向けたのは天界の神様その人だった。当の相手を人質にしていたことを思えば、この時点でも当惑はしていたのだ。




 しかしそれも、現状の居た堪れなさには比べようもなかった。
 神器を使えば距離の移動に問題はなく、足を向けたはいいものの、行動としてはそれが精々だった。植木に対してとは違い、示される反応の想像もできない。一時期は同じ場所で暮らしていたのに、どんな顔をして何を言えばいいのか、そんなことさえわからない。薄く地に落ちた自分自身の影を見ながらほとんど途方にくれてしまう。何度か躊躇い、意を決して顔を上げたところで、不意に横から向けられる視線に気付いた。変わらない、どれだけ距離があっても間違えようのない強さで。驚いたように見開かれた瞳が、真直ぐに見つめてくる。
「……佐野くん」
 知らず名前を口にして、そこで言葉が止まってしまう。弱みを押さえて、頼みごとを装った命令なら何度もしてきた。けれども何も持たない立場では、何も願えない、――望めないのに。
「――久しぶりやな」
 表情は戸惑ったままでも声を返されて、本当に、どれだけぶりだろうと考えた。最後に会ったのは、まだ一次選考の終盤だった。ロベルトが招いたドグラマンションへ植木と共に訪れた神が、佐野が十団に下った理由を知って、自ら地獄に落ちて佐野を解放する道を選んだ日。
 友情や信頼なんて所詮言葉だけ、都合よく事を進めていくための美辞麗句だと思っていた。ましてや天界人と人間の間になんて成立するはずがない、口先だけの綺麗事だと。
 佐野を十団にと指名したのも、彼の実力以上に、彼らの関係が友人のように親しいと噂に聞こえていたからだった。このバトルが終わるまでの関わりに過ぎない天界人の神候補の為に、不本意な立場に甘んじることを享受できるものかどうか。仮に一時それを受け入れたとしても、どこまでどの程度で瓦解するのか。思いついたときには、人間の醜悪さを暴き立てるのにこれほど誂えたような条件もないと思えた。
 けれども想像以上に、――どちらの意味でも、佐野は強かった。ロベルトに届くほどではなくても、容赦のない戦いぶりで、佐野が十団最強の名で呼ばれるのにそう時間はかからなかった。ロベルトの意に反して、終始揺らぐことのなかった彼の気強さが崩れたのは、彼の為に神が自らの行き先を決めた時だけだった。


 もしもここが当の相手の家の目前ではなくて、家人に見止められなければ、そのまま言葉を見つけられずにいたかもしれない。こちらの外見が物珍しかったのか勢い愛想よく応じられて、テンポの速さに上手く返せずにいるうちに立ち話もなんだろうと招き入れられてしまう。投げ掛けられた質問は佐野が知り合いの一言で押し切っていたが、それでも部屋の扉が閉じられるまでには湯のみに注がれてお茶まで置かれていった。
 半ば呆気にとられていたロベルトの正面に、小さなテーブルを挟んで憮然とした表情で佐野が座り込む。馴染んだ浴衣ではなく、制服姿の。意識して、ここが彼の日常に連なる空間なのだと思い出す。溜息を押し出すように声が続いた。
「…すまんな」
 乱暴な所作で耳の上の髪に指をさしながら、伏せられた顔が上がる。
「用があって来たんやろ。なんや」
「ああ、……うん。佐野くんの、近況の確認を頼まれて」
「……ワンコか」
 口にすれば佐野の顔は呆れたように顰められて、けれども見返してくる目元はわずかにやわらいだ。彼の理由。真逆の方向へ、気まぐれな言葉をぶつけて以前に繰り返しさせてきた表情を思い出す。
「あいつ、忙しいんやろ? 神さんなんやし、病気はせえへんて聞いとるけど、元気でやっとるんか」
「不調だとは聞いてないよ。多忙すぎて、人間界を視察する時間まではなかなかとれないみたいだけど」
「まあ、そやろな。ほんで? 頼まれたゆうても、それだけで来たわけやないやろ」
「――…ええと」
 当然の口ぶりで返されて、とっさに言葉に詰まる。反射的に見返した佐野の表情は不思議そうにロベルトへ向けられていて、数瞬黙した。それらしい返答が思い浮かばないまま、沈黙をごまかすように目の前に置かれた陶器へ手を伸ばす。ざらついた表面と、少し歪んだ形に両の手を添えれば、指先にじんわりと熱がしみた。持ち上げて伏せた顔を近づけると、独特の香りと白い湯気がふわりと立ち上る。手のひらまで熱いくらいにあたためられる温度で、少しだけ口づけてはみてもほとんど舐める仕草になってしまった。
 途端咳き込むような音が聞こえて顔を上げる。横向いた口元に手の甲を押し当てて、伏し目がちになった佐野の肩がかすかに揺れていた。
「……佐野くん?」
 怪訝に呼びかければ、息が震えるのを堪えるように、細い声が続いた。
「ロベルト、お前湯のみ、似合わんなぁ……」
 言い置いて、再度上がりかけた佐野の視線はロベルトをちらりと捉えてまた下がる。顔を背けたところで息が笑っている。ひとしきり彼のつぼを押さえたらしい波が過ぎるまで、ロベルトは困ったままの表情で佐野を見ていた。


 辞する間を掴みかねているうちに結局食事までご馳走になって、重ねてもう遅いのだから泊まっていくように勧められた。狼狽して視線を回せば、まだどこか笑いの気配を残した表情で、この後なんもないんやったらと佐野が嘯く。そうして、今に至る。
 夜が更ければ暗闇は深まっていく。静寂に沈んで時を刻む秒針の音以外響かないはずの時間に、耳に届く距離で自分以外の呼気が聞こえる。こんなのは不自然で、おかしい。肺が震えているのが分かるような気がした。おかしいのに泣きたいような心地で、絞り出すように押さえた息を吐き出す。もう隣りを見ることもできずに、持ち上げた腕で目を覆う。
 見ないふりで、今更忘れようとしても、一度思考を向けてしまえば堰を切ったように記憶がこぼれ落ちてくる。酷いことをして、どんな理由付けをしても許されるようなことではないのに、笑える理由を多分知っている。


(そうだ。…だから、ぼくは――)


 外界はやがてゆっくりと朝になってゆく。正しく優しい神様に見守られて。けれども今はまだ夜の中だった。だからロベルトは目を閉じる。見たくなかった心の奥にまで再度暗闇を落とせるようにと願いながら。

TITLE:零れた水は救えない
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