(宇宙へ上がろう、アスラン。僕たちも。)
 キラの、言葉。自分とは違う、迷い無く、逸らされることなく向けられる瞳も。
(…未来を作るのは、運命じゃないよ。)
 同意に差し出して、逡巡無く合わされた掌も。知っていた。変わらない。何度でも、いつでもそれらが、自分を正しくこの世界に組み込んでくれていたのだと。繋いだ掌越しに伝わる体温は、懐かしく、確かにあたたかかった。


 何度も夢を見た。どんなときにもその行末を妨げられることのなかった、追いつくこともできない遥かに感じられていた、フリーダムが、デスティニーの刃に貫かれて、音も届かない、ただ世界が白く発光する。振動、空に上がった灰色の雲と、荒れてわずかな破片ばかりを残した海を。
 目を閉じればいつでも、最後に見た、別れ際のキラの表情が浮かんだ。口にのせるつもりもなかった、ひどい言葉を投げて、それでも否定をすることもなかった。ただ、その哀しげな瞳ばかりが幾度も胸を苛んだ。分かり合えているはずだった。もう二度と、道を違えることはないのだと信じていた。望むこと、願う場所も、全て同じはずなのに、理解して受け入れてはくれないキラがもどかしくて、苦しかった。確かなものが、欲しかったのだ。在るべき道を指し示す、絶対だと思える。カガリやキラが、幸福に、平和に暮らせる世界のために、できることをしたかった。守りたかったのに。
 キラが、死ぬ夢を。殺される、ただ見ていることしかできなかった、失う瞬間を、何度も。目を覚ましても、終わらない絶望を。キラが死ぬはずがない、そう繰り返しながらも、核を搭載していた機体の、あの爆発で、無事でいるはずがないとも思考を覆った。すでに一度、知っていたはずの、暗闇を。キラがいない世界を見ていた。



 ここだよ、と掌に促されて、部屋に足を踏み入れる。以前に乗ったこともあるとはいえ、AAの造りにはそう詳しいわけでもない。ベッドやサイドテーブルといった調度品を見れば一人部屋とは知れて、振り返る瞳がキラの瞳と触れた。
「個室じゃないほうがよかった?」
「いや、そんなことは、ないけど」
 キラはアスランを真似るように部屋を見回した。それまでは使われていなかったのだろう、他には大して物も置かれていない、殺風景な部屋だ。
「士官室は、そんなに使う人もいないから」
 考えに応えるように言葉を向けられて、見返せばキラは少し笑った。おかしなことだけど、と続けながら、座るようにと進められる。それには逆らわずに、アスランは近いベッドの縁へと腰を下ろした。すでに諦めの境地でもある。ここに運ばれてきたときの状態に加え、傷を押して出撃した際の印象が強いのか、些細なことにも気遣いを口にされた。不甲斐なくも思えるのだが、それも相手がキラでは、アスランには何処か懐かしくさえ感じられてしまう。
「自由な立場だと、そういうの、返って拘りたくなるみたいで」
「…だったら」
「うん、そうなんだけど。…僕も、君も。パイロットだからいいんだって、」
「……カガリが?」
「みんな笑ってたから、いいんじゃないかな」
 問いかけには曖昧な言葉にも、やわらかに緩んだ瞳が物語る。そのときの情景までが容易に思い浮かべられてしまって、アスランもわずかに苦笑した。けれど、それもすぐに影を伴う。
 この艦は来るものを拒まない。思いを共にするものなら、同じ道を願うものなら。以前のように、ただそれだけであったなら、願う未来の為に、どんな過去も乗り越えられると信じられた。けれど、アスランは一度共にした道を、自らの意思で離れた。敵対し、惑いながらも銃を向けた。
「俺は、いいのかな」
 呟きを落とせば、わずかに沈黙が落ちる。部屋の端まで、棚に据え付けられた備品の確認をしていたらしいキラが、ほとんど足音も立てずに歩み寄るのにも、鬱々とした表情を伏せたままににいた。
「…アスラン」
 名前を呼んで、すぐ横に置かれたキラの手には、微かにベッドが軋んだ音を立てる。厭うように顔を背ければ、覗き込むのを諦めたように、近い距離に並んで腰掛けられた。
「……僕は、」
 何かを言いかけ、言いよどむように、また頭を振って。
「全部、これからだけど。…それでも」
 肩に軽く、手を添えられる。間近に近づいたキラの顔がふいに伏せられて、その上からこつりと、額を乗せられたのがわかる。重さを添えない、ただ触れるだけの仕草で。
「君と、またこうしていられる今が、嬉しいよ」
 ともすれば聞き落としかねないような、それは小さく、静かな声だった。

 子供の頃。月にいた頃を、ふいに思い描いていた。簡単なことだった。離れてからも、二年前、キラと敵対するようになってからも幾度も思い浮かべた記憶だ。なんの疑いもなく、キラを一番知っているのは、誰よりも近くにいるのは自分なのだと、信じていられた、幸福だった頃。

 キラからは遠い手を伸ばし、そっと、アスランはキラの髪に触れた。馴染ませるような指にも、細くやわらかな感触は、やはり変わらずにやさしい。ゆるゆるとあげられた、キラの瞳はひどく近しく思われた。瞬かれた睫毛の長さも、頬に落ちる影までも見える距離だった。
「……俺だって」
 言葉をささやく。大切なんだと、正しく言葉を続けようとして、けれど見上げてくるキラの瞳がアスランの胸に何かを喚起する。間近に吸い寄せられる。驚いたように見開かれる色には、静かに瞳を伏せて。衝動のまま、すっと、寄せる仕草で唇を重ねていた。
 避けようもなく、キラは目を開いたまま、それを受け入れた。一瞬のことだった。何かを思い浮かべる間もない。触れるだけのそれは、唇にやわらかな感触だけを残して、すぐに離される。まだ近い距離のまま、伏せられていたアスランの睫毛が持ち上がるのも、キラは呆気に取られたまま見つめていた。
「あ…」
 息のかかる距離で聞こえた言葉に、瞳が合って、キラが戸惑うように瞳を揺らしたのにはけれどアスランも硬直する。直前の、行動を思い返してさらに動揺が走る。ぐるぐると、優秀なはずの頭脳にも思考は定まらずに狼狽えた。
「…そんなに、似てる?」
 何かをごまかすように、キラは笑って。言われて初めてそのことに思い当たるほどに、呆けていた。けれど続けて、疲れてるなら今日は早く休んでと、照明を落とされればそれ以上は呼び止めることもできずに。

 伸ばしかけ、けれど伸ばされることのなかった掌を、握る。自らの理由付けのできない行動には、半ば怖れに似た気持ちで、アスランは目を閉じようと努めた。
 キラの、瞳。先程まで、あれほどに近くにあったはずのそれを、まるで思い浮かべることができず、そのことに気付けば走るように心がざわついた。閉じた目蓋の裏に、キラの表情は浮かぶ。誰よりも馴染んだそれに、胸のうちでは、頼りなく手を伸ばす。
 あの瞳に、自分は何を見たのだったか。そのときは、アスランには答えがだせなかった。




散文100のお題 / 65.回復する傷
>>「流れる糸」

B A C K