「回復する傷」>>




 何をしていても、ふいに頭の中をよぎる。

 至近距離にあったキラの瞳、体温にも、違和感などあるはずもなかった。幼馴染だとか親友だとか、キラとの関係に当て嵌めるに相応しい、やさしい言葉は沢山ある。触れること、それが可能な距離にいることだけでも、安心できる。誰よりも長くを共にした過去、かつては当たり前のように重ねてきた時間は、アスランという存在の、それこそ根幹にまで刻み込まれている。それが自然だった。それが、キラだった。

 そう、傍に。あの頃は確かに――…誰よりも近くにいたのに。

 アスランは、かつてのエターナルで、寄り添いあうキラとラクスを初めて目の当たりにしたときのことを思い出していた。シーゲル・クラインを、プラントに対する反逆者として、長く友人としても親交のあった父が、パトリック・ザラが命じて射殺したのだということは、後から聞き及んだことだった。遠目にも知れた、今にもくずおれんばかりに儚い風情で、彼女はキラの胸へと顔を伏せた。それまではずっと、凛と、遥かを見据える、強くある彼女しかアスランは知らなかった。それが彼女の一面でしかないと、気づくこともなかった。あのときに、ラクスという少女のことを、自分は本当には知らなかったのだとアスランは悟ったのだ。婚姻統制で定められた通りに、いつかは互いを伴侶とするのかもしれないとも漠然と思っていた。そこに好意がなかったわけではないのに、けれど自分から知ろうとはしなかった。ラクス・クラインという形に気を取られ、幾度言葉を向けられても、真実彼女を見ようとはしなかった。いつでも手は差し伸べられていたのだ。気づけなかったのは、アスランだった。
 そうして、彼女が、今は誰よりもキラの傍にある。キラにとっても、そうなのかもしれない。それは、アスランの胸に確かに痛みを伴った。ラクスだけでなく、キラまでが、遠くなるのかと。あの頃、アスランは誰かをわかりたいと思ったことなどなかった。けれどキラだけは例外だった。もうずっと、そうだったのだ。
 キラとラクスには、自分にはわからない、同じものが見えているように、アスランには思われた。離れていく、どんどん遠ざかっていってしまう。自分を置いて、届かないところにまで。そう考えることは、恐ろしかった。キラとの間には、もう多くのものが横たわっているのだと、認めることは。かつては許されていた、互いに傍らにあることが当然だった。けれどすでに、自分にはそれを望む資格もないのだとも、何処かで思っていた。だから、無意識にも目を逸らそうとしたのかもしれない。
 焦り、不安に揺れていたアスランの、隣にいてくれたのはカガリだった。いつも、励ますように微笑んで、在るがままの自分を受け入れてくれていた。やさしい言葉は、光のようだった。彼女が向けてくれる心はあたたかく、心地がよかった。引き寄せて、抱き締めたときにも。大切だった。愛おしいと、守りたいと思ったのも真実だった。

 戦争を終わらせる為に。それが何よりも、誰もの心を覆っていた頃。悪化していくばかりの戦況、止め処ない血と涙の連鎖に終わりは見えなかった。未来は見えなかった。それでも、全てが終わればそこには、光の溢れる、やさしい世界があるのだと信じていた。多くの犠牲も、誰も同じ、自らの命さえその為にならば捨てられた。誰もが傷ついて、痛みを抱えながら、そうしてようやく手にした平和のはずだった。

 けれど、二年の月日を待たず、今またも世界は戦渦の中にある。重責に耐え、寸暇を惜しんで働くカガリに比べれば、アスラン・ザラという名を捨て、オーブに亡命をした身はあまりに無力だった。思いを形にできない。もどかしいオーブでの現状に対し、理想を語る議長の言葉は、どこまでも優しく、素晴らしく聞こえた。どんなことでもいい、何かができるはずだと思っていた。オーブを後にし、プラントに向かったときも、思いは同じだと信じていたのに。

 一度すれ違ってしまえば、そこにあるのは苦しみばかりだった。誰かを思うことは、決してやさしいことばかりではない。理解することと、心は違うのだと。

 他の誰でもなく、自分だけを選んでくれる誰か。きっと、欲しかったのは、ただそれだけだったのに。



「アスラン、」

 瞳を見開く。歩きながらもいろいろなことが脳裏に渦を巻いていて、ほとんど周囲を認識してはいなかったので。

「、キラ」

 ブリッジに続く通路で唐突に名前を呼ばれ、反射で声を返してからアスランは遅れて動揺をした。あれから、まともに顔を合わせるのはこれが初めてだった。けれどキラは、いつもと変わらない反応で瞳を向けてくる。穏やかに笑みを浮かべられれば、硬かったアスランの表情もつられて和らいだ。

「昨日は、よく眠れた?」

 簡単に続けて、アスランの返答を待たずに、キラの手がアスランへと伸ばされる。無造作に、指の端で軽く目じりに触れて、撫でるように過ぎていく。アスランはキラの動きのままに目を開かせた後、とっさに何かを言おうと口を開いた。けれども言葉は見つからずに、キラにはまじまじと見つめ返されてしまう。

「…まだちょっと、顔色悪いかな」

 瞳を覗き込んだまま、ひとり納得するようにキラは呟いて。

「ダメだよ、休めるときに休んでおかないと」

 言いながら、アスランがあとに続くことをおそらくは疑いもせず、促すように先を進んでいく。
 アスランは顔を片手で覆って、呆けたようにほとんど立ち尽くした。怪我の疲れも見えた、元より白い色の沈んでいた表情にふいに熱が上る。
 振り向いたキラに再度、今度は不思議そうな色で名前を呼ばれて。状況に、アスランが我に返ったときにはすでに、それなりの距離があったことは果たして幸いであっただろうか。俯けたまま足を急がせたアスランの、薄く朱がさした目元にキラが気づくことはなかった。




散文100のお題 / 26.流れる糸
>>「意識という深い海」

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