「意識という深い海」>>




 モニターの前に座っていても、いつものように集中できない。キラとの会話、情景が頭の中で散らついては意識の表層を掠めていく。
 変わったっていい。脳裏では殊更に繰り返す。もう何も間違えたくはなかった。キラがいる。望めば触れられる距離にある。今はいつでも、言葉を交わすことができる。きっとこれからも、何が変わってしまっても、キラと自分が友達であることは揺らぐことがない。
 けれども、そうと思いながらも、深いどこかで心が軋む。変わってほしくなんてない。自分はキラしか選べない場所に、キラが他の誰かを望むなんて耐えられない。強く言葉に思ってからそのことに驚いて、アスランは手をとめる。見開いた瞳にも、浮かんでくるのはキラの穏やかな表情だった。間近に瞬いたキラの瞳。大切な友人が幸せであるなら、それは喜ぶべきことのはずだと、無理にも心に響かせる。けれど、以前ならばそう思えただろうかと考えてアスランは戸惑った。そこから理不尽に浮き上がってきた感情に呆然とした。

 離れていた三年。中立を謳いながら地球軍の武器製造を許していたオーブの資源衛星、ヘリオポリスでの再会。動揺に手を伸ばすことも叶わず、地球軍の女兵士に突き飛ばされるようにして機体に搭乗するのを見ていた。何度悔やんだかわからない多くの瞬間。決して取り戻すことはできない時間を。呼びかけに応えず、差し伸べた手を取ることなく、友達だと言ったナチュラルのために自分と戦おうとするのには、怒りに目が眩むほどだった。

 ――俺には、キラしかいないのに。

 血のバレンタインで母は死んだ。強硬にナチュラルとの戦争を推し進めていく父には、軍に志願をしたのは自分でも、元より望まれる形は息子としてのそれではないのだと感じていた。今ではその父もすでにない。ナチュラルへの憎しみに心をとらわれて、最後の言葉までもアスランの胸を痛めた。
 思い返すのは、大切だったのは月での日々ばかりだった。幼くはあっても、仕事に忙しいながらも、自分のために時間を見つけては母は帰ってくるのだと知っていた。プラントにある父のことも、あまり多く言葉を交わすことはなくても、敬愛していた。幸福だった頃。優しかった母、尊敬すべき父と、そして、――キラがいた。物心ついた頃にはすでに、それから月を離れる日までをずっと。傍に。当たり前のように。

 …キラがいれば。もうそれだけで、よかったのに。

 堪らずに目を閉じた。ああ、と震える息を吐き出して、目蓋を押さえる。身勝手で、我侭な感情だと思った。けれどもどうしようもない、一度思考を向ければ止め処なく溢れ出す。押し寄せてくる記憶の奔流には、心が押しつぶされるようだった。

 何かを望まれることには慣れていた。それに沿うことも容易かった。それだけの能力があり、周囲に言われるまでもなく自覚もしていた。優等生であることにも、不満を感じたことはない。馴染んだ習慣で、キラに頼りにされるのにも、必要とされているのだと実感できることは嬉しかった。
 けれど人間関係においていうならば、あの頃からアスランはキラよりも遥かに劣っていたのだ。屈託なく言葉を向ける、キラは誰とでもすぐに親しくなった。月を離れた後も、初めは通常通りの、それから軍のアカデミーに所属をしてからも、アスランは誰かを友人だと思ったことはなかった。クラスメイト。ルームメイト。同僚。時々の、振り返れば相手は好意を寄せていてくれたのかもしれないと思える、それら全てをアスランが意識することはなかった。
 部屋に飾っていたキラとの写真には幾度視線を向けたかわからない。帰りたいと、そればかりを。きっと、いつでも願っていたのだ。



 プラントのそれとは違う、作られたものではなく自然に巡る、地球の夜。順に定められた所定の人数だけを残し、それ以外は休息のために部屋へと引き上げていく。アスランに対する周囲の認識はまだ怪我人に向けるそれであったから、予定に組み込まれるはずもない。いくらか離れた距離に見かけた、キラとラクスの並んだ姿には瞳を細め、アスランは声をかけずに行き過ぎた。
 まっすぐに部屋へと戻らなかったのは、はっきりと意識してのことではなかった。漠然と覚えていた方向へ足を向けて、違わずにたどり着いたことにはほんの少し表情をゆるめ、デッキへと足を踏み入れる。誰の姿もないことには息をもらし、それから顔を上げた。落ちる照明よりもひそやかに、暗闇に光をともすもの。夜に覆われた空の彼方に、月はあった。懐かしい、美しい、ほのかな光を落としていた。

 月の裏側、ダイダロスからプラントに向けられた緑色の光線は、一瞬に宇宙を切り裂いた。ディセンベルは、かつては父が治めていた市であり、アスランもプラント本国へ戻ってからは、ザフトに志願するまではディセンベル・ワンに暮らしていた。間に合うはずもない距離を、そこにあった穏やかな世界を思えば、無力であることに胸はしぼられた。あの一閃で、いったいどれだけの数の命が失われたか。これが、誰かがそうあれと望んだ世界。こんなものが、人の心に望んだ光景なのかと。
 ジェネシスが撃たれた二年前のあの時と、世界は何も変わっていない。果てなく続く、戦いと憎しみの連鎖を断ち切る術など、本当はもう、どこにも残されてはいないのかもしれない。人は皆、誰もが幸福を願うあまりに、自らその手に銃をとってしまうのだから。
 その思いの帰結が、真に平和な世界を願い求める心のたどりついた答えが、議長の目指す生まれながらにその人の全てを遺伝子によって決めてしまう世界。生まれついての遺伝子によって人の役割を定め、その身に相応の運命の分だけを生きる、DESTINY PLANだというのなら。

 やるせなく胸に去来した思いを振り払ってくれたのは、あのときもキラの言葉だった。思い返せば、ほとんど感嘆する。キラは強い。アスランはそう思った。ずっと、置いていかれたくないと思っていた。アスランの届かない、遥かな彼方を見据えているのだろう瞳を見るのが苦しかった。キラを守りたいという思い自体が傲慢だったのだと、思い知らされるように感じていた。
 キラにとっては、自分は必要でなくなるのかもしれない。憤りでも哀しみからでもなく、ただ静かにアスランは思った。受け入れる。けれど、それでも思う心に変わりはない。この感情を消すことは到底できない。だから。――それならば、もうそれでいい。

 強くなりたい。せめて、この身にできることを為せる、並んでいられるくらいに。

 アスランは目を閉じる。瞼裏に鮮明に思い浮かぶキラの瞳を見つめ、それから開いた。先程までとは違う、静かにやすらかな心で、遥かに光をともす月を見上げた。どれだけの時間をそうしていたのだったか。唐突に、あたたかな声に名前を呼ばれて思考が引き戻される。そうして、アスランが振り返った視線の先には、キラがいた。




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