花を愛でるという感覚はあっても、天界にはそれだけを目的に何処かへ出向く行為を指すような言葉はなかった。素敵な風習ですね。幾度か耳にした言葉を訊ねて、佐野からの説明に犬丸はしみじみと感じ入る。日本の、情緒や風情を貴ぶ感覚は、犬丸がこの地に降り立ってから好ましく感じているものの一つだった。
「まあ、名目だけのが多そうやけどな」
 感嘆を隠さずに伝えれば、困ったように佐野が頸を傾けた。黒髪の後ろで額に巻かれた手ぬぐいが揺れる。とうに目に馴染んだ、涼やかな白の浴衣姿。佐野が好むそれも日本特有のものだ。犬丸の抱く日本の印象は大概が佐野の印象から直結している。凛として靡かない。何に対しても、温泉のように例え心がない事物に対しても誠実であるということ。
「そやなぁ」
 後方へ手をついて、伸びをするように佐野が仰向くので、犬丸からは表情が見えなくなった。いつも、ほとんど無意識に犬丸は佐野を追いかけてしまう。些細な仕種にまで佐野ののびやかな性格が表れているようだと感じる。行動の一つ一つを見ているだけで嬉しくなる。傍にいるだけで心の中が優しい感情に満たされていく。
「そない興味あるんやったら、行こか」
 穏やかに目を細めた犬丸へ、佐野はのんびりと告げて視線を起こした。弾んだ心情はそのまま表情に出ていたのか、目が合えば犬丸が返答するまでもなく、肩を震わせて佐野が笑い出す。犬丸の胸をあたためる、優しい笑顔だった。



 暮れ始めた空を背景に、ひらひらと薄紅の花びらが舞っていた。一定の間隔を置いて立ち並ぶ街灯と、所々は木自体にも直接ライトアップが為されている。白に近い、淡い桃色が映えるやわらかな色合いの光源に照らされて、夜空に一際華やかなコントラストだ。喧騒と人の多さには圧されながらも、華やかな光景には目を見張る。
 酒を飲み歌をうたって、あちこちで楽しげな声が響いていた。遠慮の欠片もなく跳ね上げられた歓声には、ちらりと瞳を向けて佐野は呆れたように眉を上げていたが、そういった人々もまた花見を楽しんでいるには違いない。さらに言えば、今の犬丸はそんな些事を気に留めようもなかった。先ほどから逸れないようにと佐野に掴まれたままの腕が、どうにもそわそわとくすぐったい心地にさせているのだ。
 黙々と佐野に先導され人込みを抜けて、喧騒から一歩外に出れば、すぐに静かな林へと踏み入っていた。犬丸の半歩前を、佐野は躊躇いなく木々の中を歩いていく。不穏な気配のする茂みは避け、道ではない場所まで身軽に踏み込んで、やがて小高い丘へと至る。足を止めた佐野の背から目を離せば、先ほどまでいた広場がすっかり目前に見渡せた。
「う、わ……」
 距離を離れればいっそうに、夜に灯された光が美しい。町並みにはぽつぽつと星が降り落ちたような光景の中で、桜並木の周囲だけが一際明るく華やいでいた。
「綺麗やろ」
 手を離して犬丸を振り返り、佐野が嬉しそうに笑う。
「佐野くんは、いろいろな場所を知ってるんですね」
 頷きながら声を返せば、今気付いたというような表情で佐野が瞬いた。少しばかり迷うように瞳をさまよわせてから、犬丸の顔を見上げる。
「小さい頃から温泉探してた言うたやろ。地面追いかけとったら、自然にやけど」
 誰かと来たんはここも初めてやった。秘密ごとめいた口調で続けて、にこりと笑顔を向けられる。頬に色づいて熱がのぼりそうで、犬丸は咄嗟に佐野の瞳から顔を逸らそうとした。
「――あ、」
 こちらに向き直った佐野の髪、後ろからは気付かなかった位置に淡い色合いが紛れているのが見えて、犬丸は動きを止める。
「ん?」
「花びらが、」
 犬丸が言いかければ佐野がふるふると頭を振って、けれども薄い花弁はかえって髪の奥へ入り込んでしまう。
「あ……、と、少し動かないでもらってもいいですか……」
 前髪よりの上方。伸ばされた犬丸の手の意図を汲んでか、佐野が首を竦めるようにして目を伏せる。
 かき分けるようにやわらかな髪を指先でたどりながら、自然顔が近づいていた。ふと視線を下げれば、引き下ろされた睫毛が思いのほか長いのが見てとれる。花明かりの下で、鮮やかな瞳が隠されてしまえば佐野の表情には儚い印象があって、犬丸は不意を打たれた。まだ幼さが残る顔立ちに、くっきりと残された火傷の痕も陰影を助長して見える。
 絡んだ花びらを捉えて、そのまま額には触れない距離で髪を指に滑らせて引く。前髪を目の上の位置でたどる形になって、ふるりと佐野が睫毛を震わせた。
 衝動の訪れはひどく穏やかだった。薄く花の香りが漂う中を、犬丸は佐野の顔を覗き込むように顔を近づける。触れる直前に風で佐野の髪が揺れて、弱く犬丸の鼻先を掠め、我に返ったように犬丸は顔を引き離した。
「……取れたんか?」
 ぱちりと佐野の目蓋が開かれた。真直ぐに見つめられて、じわじわと犬丸も思考が戻る。寸前の行動を自覚して、動揺は後から一息に訪れた。
「ワンコ?」
「は、はいッ」
 静かに呼ばれて声が上擦れば、佐野がまた瞬いて小さく笑う。いくらか視線を下げて、そうしてしまえばひどく大人びた表情だ。先よりもはっきりと犬丸が頬に覚えた熱には気付いているのかいないのか、手袋越しに握り締めていた犬丸の掌に軽く触れて、すぐに離れていく。
「ワンコ、」
 遠くに煌めく明かりを眩しそうに振り仰ぎながら、普通の会話の延長のように、ささやき声で。
「また来よな、約束や」
 最終選考は夏に設定されていた。犬丸が願い、佐野がその身に引き受けてくれた空白の才を守る戦いも、――担当神候補と選ばれた能力者の関係も、本来はそこで終わる。
「……はい」
 どんな些細なことでも、バトルに関する説明は出会ってすぐの頃に済ませていた。それでも告げられた佐野の言葉が沁みて、犬丸は声が揺れた。



 彼を見つけた冬の日から止めようもなく動き出した日々。春の訪れなどとうに判っていたのに、残された日数を意識してしまったのはこの時が最初だったろうか。一緒に居られたどんな時間も幸せで、それよりも早くに引き離されることなど考えもしなかった頃の記憶だ。
 彼の背景に零れ落ちていく花びらと、辺りを取り巻く春宵の霞。何度思い返しても、そのどれもがあまりに薄くて、途方もなく儚く思われた。誰よりも強い在り方、何にも揺るがない彼を知っていても、それらは犬丸にとってあの頃の佐野に結びつくイメージだった。
 尊く、何に代えても守らなければならないものだ。戦いに巻き込んだ立場で到底言葉にすることは出来なくても、いつだってそう感じていた。

 何度でも思い出す。優しい想い出の中、かつての情景にはいつも――彼の笑顔だけが降り積もっていたのに。

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