執務室の照明は落とされていた。扉を開けた姿勢のまま、犬丸は小さく息を漏らす。小林が指摘した通り、仕事のことではなかったのだろう。そうでなければいつものように、飛びかかる勢いで神補佐の彼が駆けてくるところだ。
(なんだったんだろう……)
 急ぎじゃないですが、できるだけ早く戻って来て下さい。淀川から犬丸の携帯へ送られたメールの文章は、要求だけを伝えてその理由に触れてはいなかった。詳しいことを確かめるよりも先に帰路を急いだのは、犬丸が急かされることに慣れてしまっていたからだ。唯一無二の立場だと実感は伴わなくても、犬丸にしか裁決を下せないような事案が唐突に舞い込んで来ることは多々あった。望まれる形へ少しでも沿えるように、犬丸も、与えられた役割には常に最優先に務めてきた。
 神になってしばらくは、前神の負った傷が深手だったことや、前例のない地獄での神への就任による混乱もあり、引継ぎも間々ならないような状況が続いた。目の回るような忙しさだった。自由になる時間を見つけることができるようになってきたのは、本当に最近のことだ。地上へ降りるどころか、佐野へまともに連絡をする時間さえとれなかった。
(……いや、そうじゃなくても)
 彼に告げるべき言葉を、自分は迷っていたのではないだろうか。佐野自身が受け入れたこととはいえ、命をかけたバトルで、犬丸が地獄に落ちた後も前神は佐野の神候補の交代をしなかった。見守る目のない中でも困難な道を躊躇わず、傷付くことも厭わずに、佐野は仲間と手を携えて運命のバトルを戦い抜いた。死刑を待つばかりだったはずの犬丸の命を救い上げ、神の座へ昇らせた。
 それだけではなく、それよりも以前、彼がロベルト十団に所属していた時の事もだ。どんな些細な予感でも、佐野を留める機会がなかったはずはないのに、自分こそが佐野から正義を奪った原因だったのにみすみす手を離してしまったこと。佐野の真意を理解できず、自分の為に望まぬ立場へ身を落していた佐野の、傍を離れてからの戦績を呆然と見つめ続けていたことを、思い出す。あの頃、信じたいと願えば願うほど、それは同じだけの強さで犬丸を苛んだ。眩しく見つめていた笑顔を想う度に絶望が胸を刺した。誰よりも近くに在るのだと思っていた。そうでなければならなかったのに。
 神候補が能力者同士のバトルに直接介入することはできない。わずかな望みを託して、小林が担当していた植木を探し出した時も。十団から佐野を救い出してほしいと頼み込んだ時、手の出せない立場で植木と共に十団へと赴いた時も。失えない、どんな理由でも、彼の中に確かに見つけたと思ったものを取り戻したいと思う心だけが犬丸を突き動かしていた。
 取り留めのない思考を振り払うように、犬丸は力なく首を振る。普段考えまいとしていることが浮かんでくるのは、酔っているからだろう。勧められるままに度数の高い酒ばかり空けたのだから当然だ。以前ならとうに限界を向かえていたはずの量でも、しかし神になった身体は倒れることもなかった。吐き気まではいかないが、さすがに胸の辺りに重く蟠る感覚にはため息を落としながら、犬丸は机までの距離を歩く。
 照明は付けないままだった。ほぼ壁の一面を占める窓から月明かりが差して、事務仕事をしないのならば視界を確認するにはそれで事足りた。見慣れた光景の、両脇にうず高く書類の積まれた机の中央に一枚のメモを見とめて、手を伸ばす。記されていたのは犬丸の予想を違わず、すでに見覚えた淀川の筆跡だった。
『今日はもう私室で休んで下さい』
 神様、と律儀に冒頭に呼びかけて、几帳面な文字が簡潔に犬丸へ告げる。わかりやすい要求には知らず犬丸も苦笑が漏れた。こんな状態では、確かにそれが一番正しいに違いない。神になってからはほぼ毎日が執務室との往復を繰り返すばかりの日々だった。一度廊下へと出れば後は意識しなくても追える道程を、犬丸は半ば閉じかけた瞼でたどった。



 暇なら少し付き合えよ。犬丸が小林から誘いをかけられたのは、ちょうど数日滞っていた問題がようやく片付いたタイミングだった。暇な訳がないのは重々承知の上だろう。ぞんざいな口ぶりは相変わらずの気安さで、普段のそれよりも犬丸の耳には優しく響いた。
 他には急ぎの事案もなかったので、珍しく席を外していた淀川の代わりに秘書へと言い置いて指定された店へと出向く。神の帽子と上着を脱いで、着替える時間が惜しかったので上は薄手のシャツ一枚の格好でだ。顔を合わせるなり眉を上げられて、それも却って目立つだろうと呆れられる。寒さを意識してはいなかったから、犬丸は小林に指摘されて初めて、冬なのだと今の季節を認識した。
 一人では出向いたことがない店だったが、小林に連れられて訪れたことは幾度かあった。今までと違うのは席の選択くらいのものだ。カウンターではなく壁の端、並べられた植木で店内の大概の位置から死角になる位置を陣取って、犬丸が着いた時にはすでに小林は杯を空けていた。当然の口調で遅えぞとぼやかれて、自然苦笑が浮かぶ。
「元気そうじゃねえか」
 取り留めのない会話に紛らせて言われる。酒を片手につまみを口にしながらの何気ない一言だ。それでも日頃の言動と相まって、それは不意打ちで犬丸の胸を突いた。気遣われている事実が疲れた心にじわりと沁みていく。久しく手にすることがなかった、誰に気を張ることもない時間だった。杯を空けるたびに並々と注がれて何杯も重ねるうちに、一人押し込めていた胸中がぽろりとこぼれ落ちていた。
 会いたいんです、
 誰にとは続けなくても、似たような立場だからか理解されていたのかもしれない。会いに行けばいいじゃねえか。何でもないことのように言って、小林は酒を煽る手は止めない。まるでとても簡単なことのように聞こえた。かつての神候補としての立場だけであったなら、あるいはそう出来たのかもしれない。親友として向けられていた明るい笑顔が不意に浮かんで、犬丸は震える息を吐き出した。肘をついた片手で目蓋を覆う。
 ……でも、怖いんです。
 声になっているのかも危うい。息ばかりの呟きでも口に出してしまえば、意識を向けまいとしていたその奥の感情が一瞬、目蓋の裏で翻る。グラスを置く音がしたが、何がとは聞かれなかった。息をついて、いつも通りの小林の適当な手つきで、犬丸の手元へもまた注ぎ足されていくのがわかる。
 じゃあ、思ってること全部、そのまま言ってみりゃあいい。
 もっと子供だった頃から、行き詰って途方にくれていた時にはいつでもさり気無く視線の先を指し示してくれた。どんなことでも、言わなきゃ伝わらねえんだぜ。からかうでもなく告げられた声に、けれどこの時ばかりは犬丸は頷けなかった。理由からも目を背けていたが本心ではわかっていた。佐野に自分が何を伝えたいのか、犬丸自身が知りたくはなかったからだ。



 自室へ足を踏み入れた時は、スイッチに手を伸ばしもしなかった。仕事を持ち帰った時などは別だったが、それ以外はほとんど休憩を取ることにしか犬丸は部屋を使っていない。この程度なら本来は仮眠室だけでも充分なのにとぼんやりと考えて、こんなことを打ち明ければきっと佐野は怒るのだろうなと思う。他の誰よりも、犬丸の身体を気遣ってだ。けれどそんなことよりも、どれだけ無理を重ねてでも、ほんの一瞬彼に会えるだけで本当はよかった。あたたかな彼の笑顔。暗い夜に沈んだどんな大地も等しく照らしてくれる、太陽みたいに。
 自嘲に漏れた息で頭を揺らせば、血が上ってくらりと視界がぶれる。心地よい酩酊や高揚感は得られなかったのに、一度気を抜いてしまえば、症状はしっかりと酔いが回って情けない酔っ払いのそれだった。神としての自分を思い、苦い笑いが込み上げてくる。人の目もないのだと思えばますます意識が散漫になって、脚からも力が抜けていく。視線を下に落としながら、犬丸は壁に軽く肩を寄りかからせた。執務室とは違い、小さな窓から差し込む光は細い。弱く照らし出された、足元へ届く影にほんの少し違和感を覚え顔を持ち上げて、犬丸はそのまま動けなくなった。
 窓の傍らで、黒髪の後ろに白い手拭いが靡いている。浴衣での細い立ち居姿も、いつもいつも追いかけた記憶のままだった。眩しいと思うのにどうしたって目が逸らせない。ここは天界で、そうでなくてもこんな時間に彼が犬丸を訊ねてくる理由はないのに。酷い夢だと思いながら、それでも犬丸はすぐには手を伸ばせなかった。
「――ワンコ?」
 気配を察したのか振り向いた佐野の幻は、それから笑ったようだった。影に隠れた表情はよく見えない。ずっと会いたかった、彼の顔が見えない。犬丸は痺れたような心地で、ふわふわと感覚がない足を踏み出した。けれどもまた軽い目眩がして、視界が揺らいでしまう。
「……呆けすぎや」
 目を閉じて、耳元で佐野の声が聞こえるのが不思議だと思った。頬にやわらかな髪が触れている。無意識に胸に抱きしめてから、腕の中に自分よりも小柄な身体を捉えている現状に犬丸は気付く。犬丸の体勢を支えるように、佐野の腕は同じく犬丸の背へと回されている。
「随分呑んできたんやなぁ、ワンコ。酒くさいで」
 犬丸の耳を震わせて、咎める口調でも声はあたたかく笑っていた。おとなびて優しく響く、犬丸がもうずっと焦がれていた声そのものだった。夢見心地に聞きながら、無駄な肉付きがない佐野の細い身体を犬丸はいっそうに腕に抱き込んだ。さのくん。呼びかけを声に出そうとしたが、渇いた喉はまるで反乱を起こしたように言うことを聞かない。なおも縋るように力を込めても大人しく抱きしめられたままの佐野の様子には、耳鳴りのように、脳裏の深くで冷えた声がする。
(こんなことは、……ありえないのに)
 苦い思考とは裏腹に、近く、髪や首筋からほのかに香る佐野の匂いを意識すれば甘く心臓が跳ねる。夢なら、――これが夢なら。思考に霞がかったみたいに、ふわついた意識のまま犬丸は顔を寄せた。胸に抱きすくめて、佐野の頬にそっと唇を触れさせる。
「ん……?」
 掠めた感触にはくすぐったそうに首を竦めて、数度瞳をまばたかせる。犬丸からゆっくりと身体を離しながら、佐野は困ったように眉を寄せた。
「……なんやワンコ。酔っとるうえに、誰かと間違えとるんか?」
 そんなこと、ないです。ささやいたつもりでもやはり喉はうまく音を発しない。もどかしく、再度腕で佐野の身体を引き寄せれば、逆にそのままの体勢で犬丸は腕を強く引かれた。
「しょうもない神さんやな。一人で歩けとらんし……連れてったるから、寝室って奥か?」
 佐野の肩に腕を回した姿勢で、犬丸は佐野に支えられて歩き出す。それほどの距離でもなかったが、引かれるままに佐野へと体重を預ければ体格差からか徐々に佐野の息が上がっていく。耳の傍近くにか細い呼吸を落とされて、甘い衝動が犬丸の背筋を駆けた。

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