外気との温度差で少し曇った窓。陽はすでに沈んで、空は見知った夜と変わらない一色に見える。
 今日も随分と冷えたが、それは天界も同じようだった。窓越しに見慣れない光景を眺めながら、薄く見えるガラスに佐野はすっと指を滑らせてみる。触れてみても地上のものとの違いは佐野にはわからなかった。硬質な質感は冷たいようでいて、外の温度をそのまま伝えているわけではない。時刻もすでに夜と呼んで差しつかえはなかったから、窓を開けてしまえば気温は一気に下がるのだろう。弱くでも、これも室内の温度を保つのに貢献しているものの一つだ。
 空調も整備されているのか、室内の居心地はそう悪くはなかった。部屋は綺麗に片付いていた。どころか、ほとんど物が置かれていなかった。神の私室だと告げられてもすぐには納得がいかなかったほどだ。軽く見渡してみても、元々備え付けられていたのだろう家具の類以外、まるで私物らしきものが見えないのだ。居間にあたる部屋だからだろうかと考えたが、察したのか佐野を案内した淀川が小さく言葉を口にした。神様は、まだあまりお休みをとられていないんですよ。
 ため息のように息を吐き出して、佐野は顔を伏せる。落ち着かない心地がしてしまうのは一人きりでいる為ばかりではなかった。会えるとわかっていれば、別段待つのは苦痛ではない。どれだけの時間でもだ。忙しい相手なのは重々承知していたし、――前々から約束していたことなら犬丸のことだ、佐野を気遣って無理を重ねたかもしれないが、今回の佐野の天界への来訪は犬丸の知らないことだった。
 前日、佐野に電話での連絡を寄越したのは淀川だった。見慣れない番号に訝りながら出れば、挨拶もそこそこに言われた。
 神様のことでお願いがあるんです。
 短く言葉を交わして、ほとんど説明も聞かないうちに、佐野は犬丸に会ってほしいという淀川の提案を了承していた。自身以外の為に無茶ばかりする、優しい親友の為に自分に出来ることがあるのなら佐野に否やがあるはずもない。立場の違い以前に、地上に居る身ではこちらから会いに訪ねることもままならない。十団に赴いた後、佐野を自由にする為に地獄に落ちた犬丸が神に就任してからも、簡単な連絡以外面と向かっての再会は果たせないままだった。彼を選んだ一人は自分でも、きっと無理をしているのだろうと思えば、佐野はいつでも不安とも心配ともつかない歯痒い思いに駆られていた。
 遅くなるかもしれませんが、今日のうちに迎えに行きますので。
 淀川に言い置かれた言葉に気を取られて、佐野は今日一日何にもまともに集中できなかった。開かせた教科書にも、内容を熱心に説明をしていく声にもだ。いつも授業時間は真面目に受けていたから、日頃の態度が幸いしてか呆けていれば逆に体調を気遣われる程だったが、何より佐野自身がそんな自分に閉口していた。まるで思考が他に行き着かない。何をしていても、浮かぶのは犬丸のことばかりだった。
(……ワンコは、喜んでくれるんやろか)
 薄らと考えて、目蓋を引き下ろす。少ない休息の時間をさらに削らせて、犬丸にとって、自分と会うことにそれだけの意味があるだろうか。会いたいと思っているのが自分ばかりとは思わないが、一人きりで居れば鬱々とした考えばかり浮かんでくる。天界までを連れて、去り際に淀川に言われたことも尾を引いているのかもしれなかった。
『元々真面目な方ですが、ここのところ特に根を詰めた様子で。何か悩み事を抱えてらっしゃるみたいなんです。佐野くんなら聞いているかとも思ったんですが』
 言いかけて、でも、そうか、と思いついたように続けられた。――ここだけの話ですが、僕の感では、神様の悩みはもしかしたら恋煩いじゃないかという気もしてるんです。それだったら、いくら親友でも佐野くんには相談しないかもしれないですね。
 微笑みながら思いがけない言葉を唐突に振られて佐野も虚を衝かれた。けれども、誰かへの想いを自分に打ち明ける犬丸、というのは確かに上手く想像ができなかった。並んで歩いていた頃もバトルや能力のことばかり話していたわけではないが、考えてみれば犬丸との会話はもっと日常の、あるいは抱いている夢や理想に関する内容に終始していたように思う。こんな風に気にしていても、犬丸自身のことをあまりよく知っているわけではないと目前に突き付けられているようだった。佐野の中にあるのは、犬丸の好きなものや嫌いなもの、彼の性格、信念、そういったことだけだ。それを考えると、大切に思っている犬丸との関係まで急速に揺らいでいくように感じた。
 惑う心には日頃意識を向けずにいた年齢のことも浮かぶ。犬丸はいつでも対等に扱ってくれていたが、十三も下といえば、彼からすれば自分はまだほんの子供だ。元より彼も弱音を吐くことをよしとしない。どれだけつらいことがあっても、たとえ悩みがあったところで。
「――おれには、相談なんかしてくれへんやろな」
 ぽつりと呟けばいっそうに気持ちが沈む。一足の差で小林に犬丸を捉まえる先を越されたと聞いて、胸の奥がさらに重く淀んだ。小林、という名前には佐野にも聞き覚えがあった。犬丸が尊敬している人、犬丸よりも年嵩の相手だったはずだ。同じ天界人の。きっと相談だって出来るだろう。自分とは違って、どんな内容でも聞いてやれる。
(あかん……おれも大概、身勝手やな)
 佐野はふると頸を振る。窓の外を眺めて、他には何も思わずに犬丸の帰りを待とうと努めた。訪れた時に比べ室内も暗んでいたが、そのまま明かりは灯さずにいた。犬丸が守っている世界の一つを、もう少しの間在るままの色で見ていたかった。



 すっかり酔っているらしい犬丸が頼りにならないので、一番奥まった扉に検討をつけて、犬丸を支えたままの苦しい体勢で佐野はどうにかノブを回した。予想はどうやら正解だったらしく、それなりに広々とした室内には片一方の壁に寄せて寝台だけが置かれていた。やはり生活感の薄い、殺風景な部屋をちらりと見回しながら、佐野は犬丸を引き摺って歩く。寝台の上へと犬丸を下ろすのには、巻き添えで佐野まで一緒にマットへ沈む形になった。犬丸の腕が佐野の首から肩に回ったまま、離れなかったからだ。
「……おーい、ワンコぉ?」
 小さく息をついてから、佐野は声を投げる。返答は元よりこれといった反応がないので、拘束の強さはない腕を持ち上げてすり抜ける。眠りかけているのなら起こさぬようにと出来るだけ静かに身を引いて、身体を起こす。
 普通に笑えたつもりでいたが、佐野はどこかで犬丸が酔っていたことに安堵も感じていた。室内の暗さも意図せず役立ったかもしれない。とはいえ犬丸に会いに来たのだから、犬丸が寝てしまうなら佐野には他にすることがない。目が覚めた時の為に、水でも汲んでおいてやろうかと立ち上がりかけたところで、唐突に後ろから腕を掴まれた。当然予測してはいなかったので、いきなり強く引かれれば抵抗もできずに佐野はそのままバランスを崩して倒れ込む。マットの上なので痛みはないが、先ほどよりも勢いよく、シーツの上に佐野の背中があたってぽすんと音を立てた。
 動揺は一瞬だった。目を開ければ、目の前には数秒前とほとんど同じ光景が広がっている。薄暗い室内に、居るのは自分と犬丸の二人きりだ。何も身構える必要などないはずだ。思いながら、腕を掴んだまま離す素振りがない犬丸の顔を、佐野は見上げた。
「――ワンコ?」
 置かれた状況を理解はできないまま、呼びかける。佐野を見下ろす犬丸の目は今にも泣き出しそうに、潤んでいるように見えた。
(なんで、そないな顔するんや……)
 犬丸の苦しそうな表情を見れば、佐野まで胸を締め付けられるような心地がしてしまう。掴まれていないほうの手を目の前の肩に触れさせようとして、その手も犬丸に握られた。指を絡めて、押さえ込むように上からシーツに押しつけられる。
 目を開かせた佐野の間近に、呼びかけには答えないまま犬丸の顔が下りてくる。手拭いの上から佐野の額へ唇を落とし、それから目蓋、頬へとたどるようにゆっくりと犬丸の唇が触れていく。
「な、……」
 口元の近くにまでゆるやかになぞられて、吐息が触れる近さに佐野は肩を竦める。アルコールの香りが一際強く漂う。けれども酔った勢いの行為でも、笑って受け流すにはさすがに行き過ぎていると感じた。腕に力を込めようにも、体重をかけられているのだから上からの力のほうが強くて振り解けない。もう一度、焦った心地で名前を呼ぼうと開きかけた口へゆるく唇を重ねられて、佐野は咄嗟に息を止めていた。表面を撫でて、わずかに開いた隙間から熱くぬるんだ犬丸の舌が内側へと入り込んでくる。内部の温度を探るようにやわらかな感触が動いて、丁寧に佐野の口内を舐め上げていく。
「……っ、んぅ」
 口を塞がれる息苦しさに身をよじって顔をずらせば、後を追うようにさらに奥まで舌を差し入れられてしまう。喘ぐ咽喉へアルコール混じりの呼気が入り混じる。舌を掬い、仕種だけは優しく絡め取って、震える佐野の手はさらに強く犬丸に押さえ込まれた。一度離れかけた唇が角度を変えてまた佐野の息を奪う。引こうとした後頭部はシーツに押し付けられて、ベッドが小さく軋んだ音を立てた。
「……ッ」
 口腔で散々舐った後に捕らえられた舌先を甘く吸い上げられて、痺れたような感覚が身体の芯を走り抜けていく。反射的に佐野は強く目蓋を閉じていた。視界を遮れば部屋よりもさらに暗く、触れてくる相手まで見失いそうになる。それならば犬丸は目を開けているのだろうか。不安に思い浮かんだが、確かめたくても距離が近過ぎて犬丸の顔はほとんど影を負っていた。目を凝らそうにも、解放された口で上擦った息を吐き出す合間に、犬丸の唇は止まる素振りもなく佐野の首元へと降りる。薄い肌の、動脈の上を沿わせるようになぞってその下まで。
「は……」
 肌を啄むように吸い付かれて、また跳ねそうになった息を佐野は無理に飲み込んだ。香りにだけでもまるで酔ったように息が熱く感じる。躊躇うように佐野の左手首を解放した犬丸の右手が、佐野の頬をそっと撫でていく。たどるように服の上から胸元を伝い下りて、帯に指をかけて解かせてしまう。
(……こんな、ん、)
 止めなければと思うのに、犬丸へ呼びかけようとした佐野の言葉は、まだ上擦ったままの呼吸でまともに声にはならなかった。只でさえ身じろいで乱れていた浴衣は帯を失えば簡単にほどける。中に着込んだシャツへも首元の隙間から手を差し入れて、佐野は犬丸にあっさりと前を肌蹴させられた。
「――ッ、……っ」
 手袋をはめたままの手のひらが素肌を探るように触れていく。薄い胸の表面を撫で上げる仕種で指先を柔い突起に這わされて、佐野はびくんと震え上がった。慌てて自由になった左手を犬丸の肩へと触れさせたが、押し退けようとする腕は震えていつものように力が入らない。
「待っ……、ちょお、あかんって、わ……」
 必死に紡いだ言葉よりも、佐野の反応を捉えて、犬丸の指は再度佐野の胸元へと触れた。手袋のままで薄い皮膚を何度も撫でては、執拗に突起の周囲をなぞる。犬丸の肩に置いた佐野の手が、引き攣れたように犬丸の服へ皺を寄せる。
「っ……」
 軽く擦り合わせるみたいに胸先を挟まれて、唐突に与えられた強い刺激がまた佐野の肩を震わせる。どうにか距離をとろうと、思い出したように脚を跳ね上げようとしても、縋りつくみたいに押さえ付けられた身体はほとんど自由にはならなかった。
「わんこ……っ、……あッ、んぅッ」
 片方の胸元をくじりながら、もう一方に唇で吸い付かれて佐野は仰け反った。抑えきれず妙な声が勝手に零れ落ちて、羞恥で瞬く間に頬に熱が上る。口元に捉えたまま、犬丸の舌は丹念な動きで幾度も皮膚を舐め上げてくるので、声を必死に堪えるほどに息が苦しくなった。犬丸は熱心な様子で心臓の上、左の鼓動を押さえて吸い付いてくる。次には右の胸にもあたたかく濡れた感触が伝う。いつの間にか右手も解放されていたが、弱くでも犬丸の頭を押し退けようとした佐野の抵抗はほとんど意味を為さなかった。逆に咎めるみたいにやわく歯を立てながら強く胸を吸い上げられて、目蓋の裏が白く明滅する光に上書きされる。
「――っ、ぅあ、ァ……ッ」
 駆け抜けた鋭い快感に全身の力が抜けてしまう。耳障りな自分の荒い呼吸ばかりが室内に途切れて響く。佐野の目尻を滲ませた涙は、こめかみを伝って髪の間をすり抜け、シーツの上へと落ちていった。

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