絵本パロ。ヤギ佐野と狼な犬丸で、耳と尻尾付きです

 薄曇りの空からはそれでも暖かな陽が差していて、一見雨の前兆は感じられなかった。土と植物と湿度の気配が入り混じったような匂いを知覚したときも、動揺から感覚が揺らいでいるのだと思おうとしていた。けれども、一度降り出してしまえば天候の変化は認めるほかない。犬丸は恨めしい気持ちで、雨に濡れ始めてもいまだに明るい空を見上げた。
 ぽつ、ぽつと、空の隙間から零れるように落ちてきた雨粒はすぐにその勢いを増した。どこか抜けていると日頃からかわれもするが、それは性格的な問題であって、周囲と比べて別段足が遅いわけではない。天候を読み違えたところで、手近な木の下にでも雨を避ければ早々濡れることなどないのだが、あいにくと片足を拘束された現状ではそれも叶わなかった。
 山を越えて、日頃足を向けない場所まで出向いたのはそもそもほんの気まぐれでしかなかった。人が住む場所へもいくらか近づいていたのだから、ある程度は想定するべきだったのだと思う。自然にはない、光沢を帯びた冷たい感触は、歯を噛み合わせるようにしっかりと足首へ食い込んでいる。大した怪我ではないにしろ自力では外しようがないし、罠の確認に来られたら逃れようもない。痛みよりも諦めのほうが先に立って、疲労感に知らずため息がこぼれる。せめて雨ぐらい止まないものかとまた顔を上げかけたところで、茂みの向こうからかすかに音が聞こえた。反射的に視線を向けて、犬丸はそこで固まった。雨に嗅覚が妨げられてもいて、警戒以外の心構えをしていなかったから、それで他にとっさに反応を見つけられなかった。白い耳だとか角だとか、そういった特徴よりも先に際立っていたのは目の印象だった。赤い色に縁取られた、驚いたように見開かれた黒色が犬丸を見つめている。
「……こんにちは」
 不自然に長く視線を合わせてしまったので、気が付いたときにはそんな言葉が零れていた。挨拶。初めて遭遇した知らない相手にかける言葉として、内容的には妥当なはずだった。ただ、一応狼に属する犬丸の目の前にいる、そのとうの相手が、ええと、……ヤギ?
「……なんや、わんこか」
「あの、違います。狼です」
 わずかに首を傾げて呟かれて、律儀に訂正したところで我に返る。この場合は誤解されていたほうが都合がよかったような。でもこの場合って、ここから動けない以上別に何も出来ないんだし。合ったまま逸らされずにこちらへ向けられていた目は、犬丸の言葉を受けて丸くなって、そうするとますます黒目がちに見える。
 状況に疲れていたからか、思考がずれている自覚はあった。そもそも言葉を交わす必要なんかなかったのだ。混乱している犬丸の前に、とん、と軽やかな音を立てて、相手は茂みを飛び越えてきた。手を伸ばしても、まだいくらか届かない程度の距離まで。
「狼、な。こんなところで何しとるんや」
 頭上を遮る木陰を失って、目の上に滴ってくる雫には瞼を眇めながら、犬丸の足元を見つめてそんなことを訊ねてくる。
「散歩を、してたんですけど」
「散歩?」
「いい天気で、日差しも温かくて気持ちがよかったから」
 多分物珍しさから、会話を打ち切るでもなく聞かれるままに口にしていて、不似合いな理由のせいで陥っている現状にまた鬱々とした気持ちになってくる。こういうところが抜けてるって言われる原因なんだろうな。そんなことにまで今更に落ち込みながら、沈みかけた頭を振って束の間雨に逆らってみる。それからどうにか顔を持ち上げて、こんな状況でもなければ言葉を交わすこともなかっただろう相手へ、犬丸は再度目を向けた。
「君は?」
 会話の流れとしては自然に思われた言葉だったのだが、それが相手にはどうやら意外に思われたらしい。ひとつ瞬きをして、可笑しそうに笑われてしまう。
「それは、言えへんなぁ」
 余韻に震えかけた息を抑えるように、微苦笑を含んだ声が続く。言われてみれば、それはそうかもしれない。犬丸が苦笑すると、それも目を細めて見つめられる。短い沈黙が一瞬あった。
 ちょっと待っとって。呟くように言い置いて、細い身体は唐突に茂みの奥へと見えなくなった。まるで体重を感じさせない身軽さで、揺らされた草の音だけがさやさやと離れていく。待てと言われても、何にしろ他に出切ることもないのだが、動けない状態で雨の中で、そんなふうに不意に一人きりに戻ってしまうとどこか寂しさに近い気持ちがする。けれども、投げられた言葉通り大して間を置かずに音が戻ってきた。茂みを抜けて、今度は正面から犬丸を見て、またあと少しの距離で足を止める。
「……もうひとつ、聞きたいことがあるんやけど」
 少しの間を置いて迷うような声音が続いて、先ほどの会話との温度差も含めて、犬丸の首を傾げさせる。
「なんですか」
「あんたのそれ、おれが外せたとしてやな、――動かれるようになっても、おれのこと今日は食わんって約束してくれへんかな」
 外す?
 言われた意味が一瞬わからず、犬丸は目を開くことしか出来なかった。――外す、って、
「――君が、ぼくを逃がすってことですか?」
 理解はしきれないまま、都合よく捉えた内容をそのまま返せば、否定されるでもなく頷かれる。
「困っとるんちゃうかなーて思ったんやけど」
「それは……そうですけど。もしぼくが頷いても、そうしておいて、一度自由になったらそれから食べる気かもしれないじゃないですか」
「ああ……、そうやったら、困るな。……そうする気なん?」
 真面目な表情で眉を寄せて、真っ向から尋ねられて、犬丸は反射的に横へ首を振っていた。



 その最中は、手が届くどころか、完全に無防備な体制だった。頭を下げて、犬丸の足元に屈み込む形で、器用な手は木の枝やら石やらを組み合わせている。わずかに見下ろす程度の位置で、濡れた白い耳が時折揺れて、目を逸らそうにも否応なく犬丸を落ち着かない心地にさせる。
 ふっと息を詰めた気配と同時に、強く押さえ付けられていた感触が緩んで犬丸は足を抜き出していた。少し遅れて、挟むものを失った鉄が濡れた土の上で硬い音を立てる。血は流れている。圧迫されていた箇所へも廻って、自由になった脚先は痛みを増したようにじんじんと熱を帯びていたが、それでも歩くのに動かせないほどではなかった。
 本能的に誘われる衝動とは別に、約束をしたのだから、礼を述べてそれだけで立ち去るべきだった。けれども近い距離で、安堵したように細められた瞳を向けられて、言いかけたはずの言葉を犬丸はどこかへ見失ってしまった。雨を拭うように持ち上げかけた手のひらが気づけば細い腕を掴んでいる。空からは小降りになることなく雨が降りしきっている。見つけられない何か、言葉を探す間にも、温い雨は二人を濡らしていく。

>>「死なないために今目を閉じよう」
TITLE:耳の奥で警報機が鳴り響く
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