「耳の奥で警報機が鳴り響く」>>

 見上げた空は晴れて青いものの、やけに存在感のある雲が立っていて、いかにも不穏な気配があった。唐突な雨の予感には数日前の記憶を誘発される。あまり不自然すぎて、ふわふわと浮ついたような心地のする記憶だ。


「足、痛むんか?」
 腕を押さえられた状態のまま、振り解こうとするでもなく見上げられた。こちらを見つめてくる瞳に怯えの色が見えないので、かえって犬丸のほうが戸惑ったほどだ。首を振って問いかけには否定を示しながら、指の力を緩めることもできずにいた。考えるまでもなく、手を離せばすぐに逃げていってしまうのが当然だった。
「いえ、……大丈夫です。そうじゃなくて…………君は、ぼくが怖くないんですか」
 言葉を探すうち、直前にも訊ねた内容と似たようなことを繰り返していた。困ったような表情で瞬く、睫毛の動きも見えるくらい近い距離だ。
「そりゃ、狼やしな……けど、約束破るような奴かどうかくらいわかるで」
 一度正面から合わせてしまえば、真っ直ぐな視線の威力は圧倒的だった。ちょっとやそっとじゃ外せなくなるような、そんな強さだ。奥まで見通されそうなのに、逸らすことができない。
「ぼくは、違うんですか」
 半ばうわの空な意識で口にした言葉には、雨にすっかり濡らされた耳が楽しげに揺れるのが見えた。白くて、薄くて、やわらかそうな。ちょっとだけ、噛んでみたいような衝動は、慌てて視界から外すことでどうにか耐えた。――約束は、約束だ。
「やって、……そやろ?」
 目元が細められて、悪戯めいた表情で笑われる。助けてくれて、どうもありがとう。お礼を述べて頭を下げて、腕を解放して犬丸が見送った背は、至近距離で受けた印象よりももっとずっと華奢に見えた。


 後悔はしていないが、何度も思い出してしまうのは、自然の立ち位置に逆らって相手をみすみす逃してしまったからだと思う。それだけのはずだ。内心に言い重ねながら、けれどもそんな理由に納得しきれていない自分を知っている。こぼれそうになったため息を飲み込んで、犬丸は顔を上げた。ここは狼の縄張りの範疇で、そもそもあれだけ離れた場所で会ったのだから、きっともう遭遇することもないだろう。わかりようがないことを、突き詰めて考える必要なんかない。――そう、思っていたのに。ものすごく聞き覚えのある、危機感を感じさせない声が後ろから聞こえた。
「ワンコ?」
 振り返り、びっくりしたように開かれた瞳を呆然と見止めて、考えるよりも先に距離を詰めていた。細い身体を木陰の奥へ押し込んで、覆い被さるような体勢で、口元を片手に押さえて周囲に意識を張り巡らせる。近くに他に気配は感じられなかったが、たとえ誰にも聞きとがめられなかったにしろ場所が場所だ。押さえ込んでいた口から手を離しながら、小声で言い募る。
「こんなところで、何してるんですか!?」
「……ワンコこそ、えらい剣幕やけど、」
「ここがどこだか知らないわけじゃないでしょう。ぼく以外にも、狼は沢山いるのに!」
 声を殺したまま続ければ、大きな目を見開いて見上げられる。
「そら、知っとるけど。おれ気配隠すの得意やしな。ワンコも気付かんかったやろ」
 立ち位置は風下で、確かに匂いは知覚できなかった。戸惑った声音で告げられた言葉は認めても、それにしたって危険極まりないだろうことは事実だった。そんな言葉では到底心の休まりようがない。
「そんなの、君から声かけてたら意味ないじゃないですか!」
 全く物怖じしない瞳を見下ろしながら、自然声が荒くなる。じっと犬丸の目を見ていた視線が遅れて瞬いて、それから頷いた。
「――まあ、そうやな」
 向けられた表情は、どこか笑みを含んでいるようにも見えたが、確認はできなかった。何かが近づいてくる音が聞こえて、咄嗟に犬丸が地に伏せるように細い身体を抱き込んだからだ。柔らかい髪に鼻先が触れて、陽だまりに似た匂いに鼻腔が麻痺したようになる。温かく鼓動を打つ薄い胸は、簡単に腕の中に押さえ込めてしまう。誘うように思考を揺らがせる衝動を押し殺しながら、犬丸は必死に耳を欹てていた。


 雨の音に混じって、時折雷が低く鳴る。崩れ始めた天候が幸いして、犬丸は相手の腕を掴んだままそこから離れた。気配を避けて、木々の隙間をぬって、岩陰の奥に小さな洞窟を見つけてそこへ駆け込む。それでようやく犬丸は足を止めた。
「また濡れてもうたな」
 腕の先で、ふるふると頭を震わせながらそんな声が届く。互いに同様の状況でも、濡れそぼっている様子はいかにも寒々しかった。少し腕を引けば瞬かせた目の奥が近づいて、見上げられる。
「なあ、こない濡れとったらやっぱ食いづらいんか」
 首を傾げて、気楽な口調で続けられて、犬丸はその表情を見返した。
「どういう意味ですか?」
「ワンコ、約束は守ってくれたやろ」
 訊ねれば、聞き返されたことが不思議だというように、わざとらしく顔をしかめられる。すぐに腕を回せてしまう距離で、腕を掴んだままの犬丸の手を引くように下へ座り込む。濡れて落ちた黒髪の間から、わずかに伏せられた瞳が見える。
「もう、食われる覚悟はできとる」
 随分な内容を口にしながら、声は震えてもいなかった。……けど、そない痛くせんでな。茶化すようにささやいて、笑顔の後に、すっと目が閉じられる。顔を近づけてみても、もう片方の腕を差し伸ばして耳に触れてみても、一瞬肩を震わせただけで目蓋は開けない。
「……ぼくの名前、犬丸っていうんです」
 耳の上から濡れた髪に手を滑らせて、指に髪先を掬うように顔を寄せた。先程とは違って雨の匂いで覆われてしまっているのが惜しく思えて、鼻先を耳にも押し当てる。肌に近づければ弱くでも誘われる匂いがあって、堪えるように息を飲み込んだ。くすぐったそうに首を竦められて、距離を離さずにそのまま顔を押し付ける。
「君の名前も教えてください」
 声を抑えて呟けば、伏せられていた睫毛の先が少しだけ揺れた。引き結ばれていた口元が苦笑の気配に緩む。
「これから食う奴の名前なんか知ってどうするんや」
「ぼくは、呼びたいんです」
 顔を寄せたまま、じっと待っていると、押し殺されていた息が諦めたように吐き出された。
「……佐野や。佐野、清一郎」

>>「バッタリ再会のワナ」
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